地味にすごいと言われるけれど ~「校閲ガール」の裏方はつらいよ~

f:id:notabene:20210519045703j:plain

『校閲ガール』の番組宣伝のために品川駅構内で展示されていた赤鉛筆

 

「地味にすごい」主人公は誰か?

校正・校閲に携わる、“日の当たらない”仕事をすることがあります。珍しく、校正・校閲の仕事にスポットを当てた『校閲ガール』(宮木あや子原作、KADOKAWA)が、2016年に日本テレビでドラマ化されたのも記憶に新しいですね。

 

非常に乱暴でざっくりとした定義になりますが、校正とは「文章上で誤字・脱字、文法の誤りなどを正す(日本語として整える)」、そして校閲とは「書かれた内容に齟齬や誤りがないかを精査する(事実確認=ファクトチェックを行う)」という職務です。

 

さて、その道のプロはいくらでもいらっしゃいます。校正・校閲についての薀蓄は、他の方々に解説をお譲りするとして。

 

おそらく、校正者ご本人達よりも、「校正コーディネーター」の方がよほど“日が当たらない”。歌舞伎に例えてみれば、校正者が文章そのものを司る舞台の上の黒子だとしたら、校正コーディネーターはその働きをバックステージで支える、いわば裏方のような存在です。時には相談役としてサポートし、時には依頼者として頭を下げ、時には納期を破られた進行管理者、あるいはお粗末な内容で納品されたチェッカーとして怒り狂います(それはあまりないか)。

 

ですから、我々コーディネーターからしてみれば、校正者の皆さんは立派な主役なのです。

 

私は編集者も兼任していますが、クライアントとライターさん達の双方から無謀な要望を聞いて板挟みになり、タイトなスケジュールで胃をキリキリとさせ、冷や汗をかきながら品質チェックを行い、納品にまで漕ぎ着けるという点で、校正コーディネーターと共通した役割があると思っています。

 

言葉の価値を問う

職業柄、 「1字当たり、何十何銭何厘」という1円にさえ満たぬ価値しか与えられない“言葉の量り売り”に明け暮れています。

 

今や校正は、長い伝統のある紙のゲラと赤ペンと鉛筆ではなく、パソコンのWordに付いているコメント機能を使って、原稿に直接入力していくという「Word校正」が一部で主流になっています。

 

前時代的な紙の校正をやらなくなって久しく、その記憶が余計に美化されていくからでしょうか。時折、こんな感傷的な戯言を詩の形にしてみたくなるのです。

 

紙の上で踊っている
何百、何千、何万の文字を相手に
無心に目を凝らしていると
いつしか眼前が霞み
脳味噌がフル回転して気も遠くなる
そしてある確信へと至ります
きっと今この頭の中には
コトバの神様が宿っているのに違いないと

 

一粒一粒の微小な文字の奥に
いったいどれほどの深淵と
はかり知れない世界が広がっているか
そこは信仰にも似た敬虔な期待や
喜びに満ちた忍従の末に
私たちを迎え入れてくれるのです

 

ええ、そうでなければ
やっていられるものですか
校正という因果な商売などは

ヴィクトリア朝に生きた女達の、高貴なる「耐える勇気」 ~ブロンテと『エマ』の時代の英国~

f:id:notabene:20210519045000j:plain

19世紀の面影を残すロンドンの家並み(White Horse Street, Mayfair, London

 

'Riches I hold in light esteem'
Emily Brontë

 

Riches I hold in light esteem,
And Love I laugh to scorn;
And lust of Fame was but a dream
That vanished with the morn --

 

And if I pray, the only prayer
That moves my lips for me
Is -- 'Leave the heart that now I bear,
And give me liberty.'

 

Yes, as my swift days near their goal,
'Tis all that I implore --
Through life and death, a chainless soul,
With courage to endure!

 

 

「富は問題にならぬ」
エミリ・ブロンテ

 

富なんてものは問題にもならない、
恋だって、考えただけで吹き出したくなる。
なるほど、名誉欲か? そういえば、昔夢見たこともあったが、
日が射すと忽ち消える朝露みたいなものだった。

 

もし私が祈るとすれば、自然に
口をついて出る祈りはたった一つの祈りだ。
「今の私の心をこのままそっとしておいてくれ、
そして、ただ自由を私に与えてくれ」という祈りだ。

 

嘘ではない。――光陰矢の如しで、どうやら私の
終わりも近い。そこで私が求めるものは、ただ、
何ものにも囚われない一人の人間として、勇気をもって、
生に堪え、死に堪えてゆく、ということだけだ!

 

(『イギリス名詩選』平井正穂 編 岩波文庫)

 

エマを育てたストウナー夫人の教育者たる信念 

上等だわ。私ね、前から思ってたのよ。教育ってのがどれほどのものなのか。


(『エマ』第2巻 森薫 KADOKAWA)

 

上の台詞は、貧窮の身の幼いエマを引き取る際に、ストウナー夫人が語った言葉です。長らくガヴァネス(家庭教師)を務めたストウナー夫人にとって、教育の力は充分信じるに足るものだったはずです。だからこそ、エマは住み込みのメイド以上の教養を夫人から教えられ、やがて持ち前の聡明さを輝かせることができたのでしょう。

 

しかし、エマと恋人のウィリアム(夫人の教え子)がクリスタル・パレスで幸福に満ちた時間を過ごしたのも束の間、ストウナー夫人がとうとう亡くなってしまいます。そしてウィリアムが知らされることになる、エマの悲惨な幼少期の体験。それは大英帝国の繁栄や上流階級の栄華の影で、もう一つの顔を持った、辛く悲しい貧しさの英国の歴史そのものであったわけです。20世紀末から21世紀初頭にかけて私が滞在した、人権問題の最先端を走る現代のイギリスでは、ついぞ窺い知ることのなかった階級社会の闇です。

f:id:notabene:20210519045059j:plain

グリーン・パークの散歩道。エマとウィリアムのようなカップルも歩いたかもしれない(Green Park, London

 

『エマ』に見るブロンテ姉妹の面影

冒頭で引用したエミリ・ブロンテの一篇の詩ですが、一切の虚飾を否定した、胸のすくような威厳に満ちています。奇しくも、エマが次の人生の拠点として向かったのは、ブロンテ姉妹が住んでいたハワース(Haworth)でした。エミリの姉であるシャーロットの『ジェイン・エア』の場合、主人公はメイドではなくガヴァネスですが、最後に“身分の違い”という障壁を超えたハッピーエンドを迎えるあたり、『エマ』は案外、ブロンテ姉妹の存在に触発されたのかもしれません。

 

一度ならず絶望の淵をさまよったエマは、不幸であったとは決して思えません。むしろ彼女には、あのエミリ・ブロンテが刻んだ言葉――「耐える勇気(courage to endure)」が備わっていたからでありましょう。ヴィクトリア朝の同時代を生きた英国女性として貶められるがゆえに、なお一層引き立つ高貴さともいうべき、共通の深い精神性を感じます。その耐える勇気こそが人を美しくし、心を研磨し、人間としての魅力を放つのですから。

 

f:id:notabene:20210519045259j:plain

『エマ』にも登場する窓外の光景。英国の家々の屋根には、まだ煙突が残っている所が多いHammersmith, London

今に息づく万葉集の恋歌 ~新宿御苑で味わう『言の葉の庭』のプラトニック・ラブ~

f:id:notabene:20210519044716j:plain

水面に映える新宿御苑(東京都新宿区)

f:id:notabene:20210519044753j:plain

タカオとユキノが逢瀬を重ねた東屋

 

雷神(なるかみ)も少し動(とよ)みてさし曇り雨も降らぬか君を留(とど)めむ
雷神の少し動みて降らずともわれは留(とま)らむ妹(いも)し留(とど)めば

 

《原文》
雷神 小動 刺雲 雨零耶 君将留
雷神 小動 雖不零 吾将留 妹留者

 

《現代語訳》
雷が少し轟いて雲が広がり、雨が降ってくれないかしら。そうすれば帰ろうとしているあなたを引き留められるのに。
雷が鳴らなくても雨が降らなくても、わたしはここにいるよ。あなたが引き留めてくれるなら。

 

(『万葉集』二五一三〜二五一四 中西進 訳 講談社文庫)

 

新海誠監督の『言の葉の庭』(2013年公開)に登場する和歌です。

 

劇中では、
「鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
「鳴る神の 少し響みて 降らずとも 吾は留まらむ 妹し留めば」
という表記になっていました。

 

雨の中で何気なく逢瀬を重ねる二人の主人公(タカオとユキノ)は、やがて心惹かれ合う仲となっていきますが、柿本人麻呂の作とされているこの問答歌は、その象徴的な引用として使われています。何といっても、ユキノは古典の先生ですから。

 

雨の中の庭園(新宿御苑がモデル)を舞台に繰り広げられる、詩的な恋物語。まるで実写かと見紛うような、緻密で美しい自然や都会の風景描写も印象的です。

 

片や、年上の女性に淡い恋心を抱き、靴職人という自らの志に向かって邁進する15歳の青年。彼は家を出て行った母親の面影を見いだしたのでしょうか。そして片や、職場で悩み苦しみ、心を病んだ27歳の女性。彼女は年下と知っていながら、そんな青年の存在に救われていたのです。二人の間には、もはや年齢差を感じさせない「プラトニック・ラブ(肉体的欲望を離れた純粋に精神的な愛)」へと昇華した感情さえ生まれているのではないかと思わせます。

 

美しいカメラワークで再現した現代日本の外的世界の中で、古来の繊細に揺れ動く人物の内的心理を活写する――。アニメーションという手法を通した「映像文学」とさえ呼びたい秀作です。

 

f:id:notabene:20210519044855j:plain

訪れた1月中旬には氷が張るほどの寒波が到来