現代文学に見る「信仰」と「宗教」のあり方 ~キリスト教・ヒンドゥー教・イスラム教の交差点~

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元旦の満月に照らされるニコライ堂(東京都千代田区神田駿河台)

 

彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい

人は彼を蔑み、見すてた

忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる

まことに彼は我々の病を負い

我々の悲しみを担った

 

『旧約聖書』「イザヤ書」53章2-4節

(『深い河』遠藤周作 講談社文庫)

 

遠藤周作の祈りと試み

今日はクリスマス・イブ。街に繰り出すと、否が応でもクリスマス・セールの掛け声が聞こえ、スーパーではチキンやローストビーフやケーキが大々的に売られて気もそぞろですが……ちょうど2年前に書いた記事「ミサでクリスマスの意味を考える」から派生させて、今回はいくつかの文学作品を通し、信仰や宗教のあり方について触れてみたいと思います。これは、ライター稼業上、“クリスマス商戦で儲ける簡単投資”などという下世話なネタで記事を書かざるを得なかったことに対する、せめてもの償いでもあります(笑)。

 

notabene.hatenablog.com

 

冒頭で引用したのは、遠藤周作の遺作となった『深い河』に登場する一節。この作品では、神父になることを断念した青年・大津と、「彼」に対して常に挑発的な態度で弄んだ美津子、そしてインド旅行のツアーに参加した複数の登場人物から語られる群像劇が、日本とフランス、果てはインドにまたがるスケールの大きさで描かれます。もちろん、ここでいう「彼」とはイエス・キリストを指していますが、それと同時に、ガンジス河のほとりにある火葬場で遺体を運ぶ仕事に従事する、大津の最後の姿そのものといえるでしょう。

 

遠藤はまた、ヒンドゥー教で死を司るといわれる、チャームンダーという女神についても、ツアー添乗員の江波に語らせています。

 

「彼女は……印度人の苦しみのすべてを表わしているんです。長い間、印度人が味わわねばならなかった病苦や死や飢えがこの像に出てます。長い間、彼等が苦しんできたすべての病気にこの女神はかかっています。コブラや蠍の毒にも耐えています。それなのに彼女は……喘ぎながら、萎びた乳房で乳を人間に与えている。これが印度です。この印度を皆さんにお見せしたかった」

 

印度の聖母マリアのようなものですか、というツアー客からの問いに、江波はそれでもかまわない、と答えます。しかし、チャームンダーは聖母マリアのように清純でも優雅でもない。逆に醜く老い果て、苦しみに喘ぎ、苦痛に満ちて、釣り上がった眼をしている。その点で彼女たちは、必ずしも“同じ”ではない。同じではないけれども、人々は苦しみを受け止めてくれる聖なる対象として、ヨーロッパではマリアを、インドではチャームンダーという像を見いだしました。ここに遠藤は、結論を急がず、宗教という枠組みを越えた、祈りと信仰の可能性を深く探っているように思えます。

 

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ヒンドゥー教のスリ・バダパティラ・カリアマン寺院(Serangoon Road, Singapore

 

ヨーロッパの作家たちが願ったこと

ヨーロッパとひとくちに言っても、国や地域によって見せる顔はさまざまです。宗教も然り。特に宗教対立は、時に争いの火種となって人々を苦しめていますが、果たしてヨーロッパが持つ多様性が、そうさせているのでしょうか。それについて深い洞察を語ったのが、先月開催された「ヨーロッパ文芸フェスティバル」のために来日したリディヤ・ディムコフスカ(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国出身)と、ワリド・ナブハン(マルタ)でした。【※なお、このイベントについては「文学で旅するヨーロッパ」で詳しくレポートしています】

 

eumag.jp

 

ディムコフスカは、『スペア・ライフ』という著作の中で、頭と頭がつながった癒合双生児として生まれ、分離手術の後に生き残った一人の女性がラジオ局で語る、というストーリーを紡ぎました。なぜ、彼女はあえて癒合双生児を登場させたのでしょうか? 分離手術を行えば、二人のうち、どちらか一人は必ず死ぬということを意味していたのにもかかわらず。

 

それは、旧ユーゴスラビアで繰り広げられた、今からそう遠くない紛争の歴史を、二人の双生児になぞらえたからでした(マケドニアは1991年に独立)。そしてこの紛争は、民族や宗教の違いとも決して無関係ではありませんでした。

 

「これはマケドニアとユーゴスラビア(当時)が、お互いに何が何でも分離し、独立したかったという歴史の比喩なのです。2つの国で起きた歴史的な性(さが)を描いていると同時に、欧州の歴史でもあります」

 

この残酷にも現実的な物語を書いた彼女は、「マケドニアはまだEUの一部ではありませんが、私自身は加盟を望んでいます」と強く話していました。民族や宗教の多様性が共存する、一つの共同体の下で人々が暮らせる平和を祈念しながら。

 

もう一人の作家ナブハンは、ヨルダンでパレスチナ人家庭に生まれ、自身も1948年に起きた戦争をくぐり抜けて避難民となり、以来30年間、マルタ在住の人です。彼の書いた『コウノトリのエクソダス』*1は、自伝的要素の極めて強い作品となっています。民族と宗教の違いでユダヤ人に追いやられたはずが、実はナブハン氏本人もまたアラブ人とユダヤ人の血筋を半分ずつ引いているという、皮肉な衝撃の事実。

 

「ユダヤ人もパレスチナ人も同じ人間。お互いを敵のように思っていても、相手がいなければ自分も存在し得ない関係にあると思うようになりました」

 

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イスラム教のスルタン・モスク(Muscat Street, Singapore

 

われわれ日本人には想像しがたい宗教感覚や歴史的背景、といって片づけてしまうのは簡単ですが、「良い作品は旅する翼を持っているのです」とナブハンは言いました。文学が扱うのは、ひとえに人間の精神性です。それは確かに、世界共通の認識といってよさそうです。

*1:エクソダスとは、旧約聖書の一書『出エジプト記』で虐げられていたイスラエル人がモーセに率いられてシナイ山に向かったこと。転じて、多数の人々が国外脱出することを意味する