ミサでクリスマスの意味を考える

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クリスマスのイルミネーションに彩られたカトリック神田教会(東京都千代田区西神田)  

 

昨今、「Merry Christmas」の代わりに、「Happy holidays」という言葉がよく聞かれます。これはもちろん、キリスト教の信仰者ではない人にも配慮した、広範囲の挨拶の形。年末年始になると、宗教の違いを意識せずに使える便利なフレーズとして、クリスチャンではない私自身も用いるようになりました。

 

今年のクリスマス前夜、都内のある教会で行われた夜半ミサへ、初めて参列する機会を得ました。日本ではクリスチャンでなくとも、クリスマス前夜・当日のミサへ足を運ぶ人が多いようです。今ではデートのコースにも入っているとか。その賛否はここでは問いません。しかし皮肉を全く抜きにして、宗教の壁をいとも簡単に越える現代の日本がいかに平和な環境であるかを示す、一つの現象ともいえるのではないでしょうか。

 

クリスマスの意味とは何でしょうか。それは、「神が、あえて人間と出会うために、最も弱い姿で現れてくれた」ことを祝うことです。


(浦田慎二郎/サレジオ会司祭)

 

イエス・キリスト誕生の逸話

皇帝の命により全領土の住民が登録をしなければならず、そのためにヨセフとマリアはベツレヘムを訪れます。臨月のマリアはベツレヘムに滞在していた間に子を産むことになりますが、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」(ルカ2:7)、つまりまともに寝食ができない中、糞尿にまみれた不清潔な厩で、いつ馬が暴れるか分からない危険と隣り合わせになりながら、マリアは出産したのです。彼女の不安と心細さは、いかばかりだったでしょうか。

 

そして、その地方の羊飼い達の元へ天使が現れ、イエスの誕生を告げます。当時のユダヤ人社会において、羊飼いがどのような存在であったかは歴史学的な考証を俟たなければなりませんが、“権力から最も遠く貧しかった”という見方が一般的です。

 

ここで思い出すのは、インドでパリア(不可触民)という身分にあった人々が、ガンディーによってハリジャン(神の子)と呼ばれたことです。当時のユダヤ人社会とインドの複雑極まりないカースト制度とは、比較すべくもありませんが、社会から疎外され虐げられている構図としては、共通するものがあるように思います。イエスは「最も弱い姿」で現れたというわけです。

 

難民イエス

イエスもまた難民だったといえます。嬰児殺しを命じたヘロデ王の時代に、ヨセフとマリアはイエスを連れてエジプトへ逃れたというエピソードは、史実か否かという議論の前に、現代でも実際に似たようなことが繰り返されている現実に留意してもよいと思います。

 

私の友人は、チベットからヒマラヤ山脈の検問を越えてインドへ逃れ、さらにイギリスやアメリカへと亡命していきました。彼らは決して相手を声高に非難しません。しかし彼らの存在自体が、テレビの中の他人事ではなく、身近な出来事として非常に重い現実を訴えかけます。

 

人間であるとは、まさに責任を持つことだ。自分には関係がないように思われた悲惨をまえにして恥を知ることだ。


(『人間の土地』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 堀口大學 訳 新潮文庫)

 

自己中心的な慌ただしい日々から抜け出して、悲しみや苦しみの存在に思いを致すこと。 私にとって、それが今年のクリスマスの意味となりました。