この不透明な時代に、「コヘレトの言葉」を聴く ~「ヘベル」の解釈をめぐって~

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ゴシック建築の教会(exact date and place unknown, England

 

コヘレトは言う。

なんという空しさ

なんという空しさ、すべては空しい。

 

(『旧約聖書』「コヘレトの言葉」新共同訳 1章2節)

コヘレトは言う。

空の空。

空の空、一切は空である。

 

(同上 聖書協会共同訳)

 

訳語ひとつで一変する「言葉の顔」

テレビや新聞、SNS……メディアというメディアが、新型コロナウイルス一色で埋め尽くされている今日この頃。玉石混交の情報が目まぐるしく移ろいゆく中で、とりあえずビデオ録画しておいた番組を見て、久々に「おおっ!」と感銘を受けたのが『こころの時代~宗教・人生~ それでも生きる:第1回「コヘレトの言葉」とは何か』でした。昨今のNHKは、あちらこちらから批判の対象になっていて散々ですが、こと「100分de名著」と「こころの時代」においては、密かにいい仕事をしています。

 

さて、冒頭の2つの句は、どちらも日本聖書協会が訳した「コヘレトの言葉」からの一節を抜粋したものです。1987年以来、「新共同訳」として長らく読まれ続けてきましたが、31年ぶりに改訳されて、2018年に「聖書協会共同訳」が発刊されました。前者は読みやすさを重視し、言葉のリズムが豊かでより文学的・詩的であるのに対し、後者は原文に忠実であえて直訳も辞さず、より哲学的・思索的な表現になっている、という印象を受けます。

 

「空しさ」あるいは「空」の原語になっているのは、ヘブライ語で「ヘベル」と呼ばれる言葉です。「空の空、一切は空である」なんて、まるで仏教の経典か『平家物語』に出てきそうな一節ですね。たまたま仏教徒の家に生まれ、幼い頃から仏教用語に慣れ親しみ過ぎて食傷気味な私にとって、「空しさ」という訳の方がどことなく文学風で個人的には惹かれるものがありましたが……。この「空の空」という表現に置き換えられたのは(厳密に言えば、新共同訳以前の訳語に戻ったのは)、どうやら好みの問題ではない、別のれっきとした理由があるそうです。

 

人生は「束の間」だからこそ、生きるに値する

『旧約聖書』は律法の書(モーセ5書)、歴史書、文学書、預言書の4種で構成されており、「コヘレトの言葉」はその中でも文学書の一つとして所収されています(分類には異説あり)。本編を初心者にも分かりやすく解説した入門書として、小友牧師による『それでも生きる―旧約聖書「コヘレトの言葉」―』(NHK出版)、あるいはウェブ上では臼田宣弘牧師による「コヘレト書を読む」シリーズがあります。ご興味のある方はどうぞ。

 

ここから先は、小友牧師による上記のテキストを主に参照しながら、「ヘベル」が「空」と訳された所以を見ていきたいと思います。

 

「コヘレトの言葉」が書かれたと推定される紀元前200年頃の時代は、ユダヤ人を支配する宗主国が次々と入れ替わり、血で血を洗う紛争が絶えなかったといいます。明日の命をも知れぬ、不安定で先が見通せない社会情勢にあって、コヘレト(=伝道者)が世を儚んで「一切は空」だと言い切るほどにペシミスティック(悲観的)・ニヒリスティック(否定的)なものの見方をしたのは、このような時代背景があったことも看過できません。

 

ここでコヘレトは、「ヘベル」という言葉を使いました。英訳の聖書では、vanity(空しさ)、emptiness(空虚)、meaningless(無意味)、futility(無益)、nothing(無/虚無)、absurd(不条理)、irony(皮肉)、ephemerality(儚さ)、insubstantiality(脆さ)、mystery(神秘)、enigmatic(謎めいた)など、実にさまざまな訳し方があるとか。ここから転じて、小友牧師は「束の間=時間的に短いこと」と捉えています。

 

愛する妻と共に人生を見つめよ

空である人生のすべての日々を。

 

(9章9節)

若者よ、あなたの若さを喜べ。

若き日にあなたの心を楽しませよ。

〈中略〉

若さも青春も空だからである。

 

(11章9-11節)

 

この文脈で、「空」を「束の間」と置き換えてみると納得がいきます。確かに、単に「空しい」と訳しては、言葉の持つ印象・意味が完全に違ってしまいますね。

 

人生は短く、限りがある。しかし束の間だからこそ、日常の小さな出来事さえもすべて生きる価値・意味があるのだと、コヘレトは逆説的な語法で説いているというわけです。だとしたら、「空の空」とは何という人生讃歌の言葉なのでしょうか。

 

無宗教の現代人がなぜ「コヘレトの言葉」に共鳴するのか

再び歴史的な背景に戻りますが、「コヘレトの言葉」が書かれた頃は貨幣の流通が盛んになり、ユダヤ人社会が市場経済に呑まれ、貧富の差が激しくなった時代です。これは現代にも十分通じる社会構造で、コヘレトが一貫して描いているのは「虐げられる者の涙」であり、当時の権力者に対する批判でもありました。

 

誰のために私は労苦し

私自身の幸せを失わなければならないのか。

 

(4章8節)

 悪事に対して判決が速やかに下されないため

人の子らの心は悪をなそうという思いに満ちる。

百度も悪を重ねながら

生き長らえる罪人がいる。

 

(8章11-12節)

 

えっ、これは何という既視感(デジャヴ)!? どこかの国で今まさに騒がれている事態ですよね。見よ、斜陽の国ニッポン。コヘレトはさらに、当時のいわゆる監視社会に対しても警告しています。

 

心の中で王を呪ってはならない。

寝室で富める者を呪ってはならない。

空の鳥がその声を運び

翼を持つものがその言葉を知らせてしまう。

 

(10章20節)

 

権力者の不正が横行し、人々が常に監視下に置かれる悲惨な社会。ここでコヘレトが権力者への批判を「気をつけよ」と警告している点は、真っ向から異議を主張して個人の意見を表明できる民主主義の時代にはそぐわない部分もありますが、ファシズムが忍び寄っているどこかの国の人間には他人事では済まされない予言的な警鐘でもあるでしょう。

 

コヘレトはさらに、当時流行していた終末論(=この世界に終わりがあるという黙示思想)にも異を唱えています。終末論が孕んでいる問題とは、世界に終わりがあるとすれば、「今」はただ耐えるだけの空疎な通過点にすぎず、人間は現世で何をしても意味がないことになります。当然、生きる喜びもなく、人生は空虚なものになります。コヘレトは、そのような空しい生き方に対して、現実的かつ建設的な人生讃歌を謳っています。

 

そこで、私は喜びをたたえる。

太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに

人に幸せはない。

これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に

伴うものである。

 

(8章15節)

 

いつ訪れるか知れない世界の終わりに一喜一憂するよりも、目の前にある日々の労苦をきちんと担い、「今」を生きよというのです。大事なことは、ヘベルの人生、つまり終わりのある束の間の人生をどう生きるか。だからこそ、飲んで食べて、働き、楽しみ、与えられた今あるこの命を生きるべきなのだと。

 

旧約聖書の知恵文学は、基本的に「地上でどう生きるか」を考えるものだと小友牧師は指摘しています。コヘレトはその人生の知恵を、極めて現実的に考え、今そこにある幸せを厳しくも温かに見つめました。

 

たとえ明日、世の終わりが来ようとも

今日、私はリンゴの木を植えよう

 

これは16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの言葉とも伝えられていますが、確たる文献はありません。これと似た言葉を、コヘレトは次のように綴っています。

 

朝に種を蒔き

夕べに手を休めるな。

うまくいくのはあれなのか、これなのか

あるいは、そのいずれもなのか

あなたは知らないからである。

 

(11章6節)

 

蒔いた種が芽を出し、うまく育つかどうかは、誰にも分からない。未来のことは、人間には到底知り得ないことです。明日が見えないのに、今をどう生きたらよいのか――。誰も答えを出してはくれない。なぜなら、答えるのはこの「私」だからです。「コレヘトの言葉」には、その答えを探すための知恵が溢れています。