時代を越えたシェイクスピア ~映画『ノマドランド』に見る、悲しめる者にこそ宿る詩心~

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W. シェイクスピアの生家(Henley Street, Stratford-upon-Avon, Warwickshire

 

苦境に虐げられた流浪の人々を描きながらも、詩的な雰囲気をまとう傑作

いまだ収束の糸口が見えないまま、世界中がコロナ禍に見舞われて暗雲垂れ込める中、2021年に公開された映画『ノマドランド(原題:Nomadland)』が、第77回ヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞に続き、第78回ゴールデングローブ賞、第93回アカデミー賞など国内外で高い評価を得たことは、非常に明るいニュースでした。

 

監督は、中国・北京出身のクロエ・ジャオ(Chloé Zhao、本名:趙婷)が務め、自ら脚本・編集なども担当していますが、いわゆる“非白人”かつ“女性”による作品という、前人未到の快挙として称えられたことも記憶に新しいですね。

 

米国などで活躍する外国出身のアーティストたちは、ともすれば自身の文化的アイデンティティーを問う作風を貫くことも多いですが、『ノマドランド』はそういった異文化的要素が全くない状況下で、米国社会のある一角を活写した映画です。これは、アジア系の人々に対するヘイトクライムが後を絶たない中、決して安易な“同情票”で得た評価ではないことの証左ともいえるでしょう。 

 

一切の演出を感じさせない、その淡々としたカメラワークから一見、ドキュメンタリー映画という印象を受けますが、もともとはジェシカ・ブルーダーが著した実録『ノマド ―漂流する高齢労働者たち―』(春秋社)を原作として、ジャオ監督が脚色を加えたもの。主な登場人物の中には、実際にノマド生活を送っている人々も起用されていますが、フランシス・マクドーマンド(Frances McDormand)が演じる主役のファーン(Fern)は、原作にはないオリジナルの人物として描かれました。

 

日本の映画館では本作のパンフレットさえ売られておらず、なかなか製作背景を知ることができませんでしたが、驚いたことに、原作の映画化権を獲得し、すでに『Songs My Brothers Taught Me』(2015年)や『The Rider』(2017年)などで実力を発揮していたジャオ監督を望んで起用したのは、むしろマクドーマンドからのアプローチだったとのこと。主人公を、花を咲かせず地味ながら、過酷な環境でも強く生き抜く植物のシダを意味する「ファーン」と名付けたのも、彼女のたっての意向だったようです。*1

 

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実を言うと、英文学者の北村紗衣氏による映画評「アカデミー賞最有力! 映画『ノマドランド』──放浪する主人公を支える詩の力」を読まなければ、おそらく私が『ノマドランド』を観ることはなかったかもしれません。それほどに、映画の中で詩の存在が欠かせないスパイスのように効いているのです。

 

作品が時代を超越するという現象は、過去に書いた「今に息づく万葉の恋歌 ~新宿御苑で味わう『言の葉の庭』のプラトニック・ラブ~」にも通じるテーマですが、この『ノマドランド』でもまた、シェイクスピアの台詞やソネット(sonnet、14行詩)の引用が効果的に活かされていることは特筆すべきです。

 

優れた詩がそうであるように、短歌もまた、それが「ちから」を内包していればいるほど、時代の制約を超えた象徴性を帯びてくる。<中略>時代を超えて新しい「読み」を促すのである。

 

(『本の窓』2021年3・4月号「光あることば」 若松英輔 小学館)

 

中国出身の女性監督が見つめた米国社会の一角

ノマド(nomad)とは、民族学的にいえば「遊牧民」、あるいは一般的に「流浪者」を意味する言葉ですが、本作で登場するノマドとは「車上生活者」を指します。バン(小型トラックやワゴン車)を改造したキャンピングカーで移動し、車中で食事をし、眠り、必要があれば路上に停車・駐車して、ある期間は労働に従事することも。ノマドの人々自身、「我々はhomelessではない、houselessなのだ」と主張し、むしろその境遇を前向きに捉えているようです。つまり、ビジネス業界的な言い回しをもってすれば、全てが“自己裁量”の世界になるわけです。ある見方をすれば、自由を謳歌できるお気楽な生き方と思う人も少なくないかもしれません。

 

しかし、本作の根底で流れるのは「果たして自己裁量なのか?」という問いかけです。映画の冒頭で、企業や工場が閉鎖されてゴーストタウンとなった米国ネバダ州エンパイア(Empire)の荒漠とした土地が映し出されますが、2008年のリーマン・ショックに端を発した経済危機が、この辺境の地にも容赦なく波及したことが暗示されます。不動産や株式投資などという虚構にまみれたマネーゲームの犠牲となったのが、むしろそれとは無縁の貧困層だったことは、ここ十数年間の世界経済情勢を見ても明白です。

 

裕福な中国人の親の下で反骨精神の強い少女に育ったジャオ監督は、15歳でイングランドの寄宿学校に入れられ、その後、渡米して気の向かないまま政治学を専攻し、ニューヨーク大学で映画製作を学ぶまでは、パーティーのプロモーションや不動産業、バーテンダーの職などを渡り歩いたといいます。*2

 

作中、車の修理代を借りるために、ファーンは姉の家に立ち寄りますが、奇しくも不動産業で成功している義兄が「あの時(リーマン・ショックの頃)に土地を買い占めておけばよかった」と、守銭奴のような笑みを浮かべた瞬間、彼女は次のような趣旨の台詞を吐き出します。

 

「他人に多額の借金を背負わせて金儲けをすることに、人として恥ずかしいと思わないのか」

 

ノマドの人々の存在は、安定した経済活動に就き、安穏とした定住生活に甘んじることに何ら疑問を持たない資本主義社会のあり方に、真っ向から異を唱えるものだといっても過言ではないでしょう。映画の中で、ノマドの登場人物たちが車上での生活費を稼ぐために、臨時労働者として清掃や調理、アマゾン倉庫でのピッキング、農園での収穫などの低賃金肉体労働に従事する姿がつぶさに描かれます。また、束の間得られる余暇には、定住者らと何ら変わりなく、映画館に行き、ダンスホールで踊り、食事をします。

 

こう言うと「資本主義に反対しておきながら、まるで寄生虫のように経済的恩恵を享受しているではないか」という的外れな声も聞こえてきそうですが、それぞれの主張はさておき、いったん都市部での労働を離れ、自分のバンで広漠と続く道を駆るノマドの人々の目に映るのは、大自然の厳しくも美しい壮観。いったいどちらが人間らしい生き方なのか――。ファーンの姉が、妹を擁護して誇らしく「ノマドこそ、西部開拓者の伝統を受け継ぐ人々だ」と称えた理由が、そこにあります。

 

ファーンがその不動産屋の男に言い放った言葉は、もしかしたらジャオ監督が自身の過去、あるいは鉄鋼会社のマネージャーや不動産ディベロッパーとして財を成した中国社会のエリートである父親に対して向けられた贖罪なのかもしれない、とさえ思えるのは、邪推が過ぎるでしょうか。

 

いずれにしても、コロナ危機により、それまでの生活形態や常識がことごとく覆されていく渦中にあって、人間本然の生き方を静かに問うた本作が、なおのこと世界各国の評者や観客の共感を呼んだことは間違いありません。

 

シェイクスピアの普遍性を窺わせる言葉の力

夫の死後、ゴーストタウン化したエンパイアを去ることを余儀なくされた主人公ファーンですが、ノマド生活を始める前は、英文学を教える臨時教員でした。

 

車上生活を始めるための買い出しでスーパーに入った折、かつての教え子に出会ったファーンは、次の一節を暗唱させます。

 

To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death.

 

(Macbeth, Act V Scene V:一部抜粋)

 


明日も、明日も、また明日も、
とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、
歴史の記述の最後の一言にたどり着く。
すべての昨日は、愚かな人間が土に還る
死への道を照らしてきた。

 

(『マクベス』第5幕 第5場より 松岡和子 訳)

 

これは『マクベス』の「トゥモロー・スピーチ」と呼ばれる、夫人が亡くなったことを知らされたマクベスが、人生の虚しさを嘆く場面で語られる有名な台詞ですが、すでに人生の後半に入ったファーンにとって、「明日も、明日も、また明日も……」が、これから来る日も繰り返される流浪の旅を暗示させ、極めて象徴的な印象を与えてくれます。このシェイクスピアの言葉を映画の台本に盛り込んだ、ジャオ監督とマクドーマンドの人生を見つめた鋭いセンスが光ります。

 

本場の英国はもちろんのこと、米国などでも中等教育からごく普通にシェイクスピアの作品を習うようです。余談ですが、そういえば筆者が国際学校の高等部にいた時分にも、フランコ・ゼフィレッリ監督版のスチール写真付きで、『ロミオとジュリエット』の全テキストが載っていたことを思い出します。それほど欧米の人々にとって、シェイクスピアは馴染みのある存在なのでしょう。

 

また、ファーンは流浪生活の途中、同じくノマドの青年に向けて、彼の恋人に「ソネット18番」の詩を贈ってはどうかとアドバイスするシーンもあります。劇中では、車内に本棚があったかどうかは確認できませんでしたが、すぐに諳んじて他人に教えられるほどに、もはやシェイクスピアの詩は彼女の血肉となっているのでした。ここに私は、シェイクスピアの言葉が持つ、時代を超越した人間の精神的普遍性を見いだせるような気がします。

 

Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date:
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance, or nature's changing course, untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade
Nor lose possession of that fair thou ow'st;
Nor shall Death brag thou wander'st in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st;
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.

 

(Sonnet 18)

 

 

君を夏の日に喩えようか?
君はさらに素敵で穏やかだ。
荒々しい風は五月の可憐な蕾を揺らし、
夏のかりそめの命は短かすぎる。
時に天の眼差しはあまりに暑く輝き、
黄金色の顔も暗く翳ることがある。
どんなに美しいものも皆いつか衰え、
偶然にか、自然の成り行きの中で刈り取られる。
だが君の永遠の夏は色褪せることなく、
君に宿る美しさも消えることはない。
死神が君を死の影へ彷徨わせているとは言わせない、
永遠の詩に詠われて時と一体になるならば、
人が息をし、目の見える限り、
この詩は生き、君に命を与え続ける。

 

(ソネット第18番 拙訳)※参考*3

 

昨今観た映画の中で、これほど魂をえぐられた作品はありませんでした。死と隣り合わせの自由。厳しくも美しい自然。それぞれの喪失体験と悲しみを胸に秘めながら、壮大な大地でただ孤独に車を駆り、時に仲間たちと束の間の再会を喜び、苦楽を分かち合うノマドの生き方。彼らが体現する生きることの深さを目の当たりにして、何度も滂沱と涙が流れました。

 

われわれのような数多の定住者は、安穏とした生活を享受することに、何らの疑問を抱くこともありません。安定と引き換えに何かしらの縛りを受けていれば、自由気ままな車上生活にむしろロマンを感じることもあるでしょう。あるいは、経済的苦境から流浪生活を余儀なくされ、知恵の限りを尽くしてノマドの生活を選んだ人々に対し、憐憫や嘲りさえ覚えるかもしれない。しかしそれでも、どこかノマドと呼ばれる人々に対する畏敬の念を抱くのは、彼らがより人間の尊厳と誇りを宿しているからだろうと思えてなりません。

 

最後に、映画を観た日に綴った私記から引用して、筆を置きます。「どんなに富める者よりも、どんなに安泰な生活を送る者よりも、ノマドの人々は生きることの何たるかを知っている。彼らにこそ、人生を深く謳い上げる詩がふさわしい」。

 

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 シェイクスピアが生きた時代の衣装を纏って町を歩く女性達(Stratford-upon-Avon, Warwickshire