「名前たちの歌」を語り継ぐ、祈りと鎮魂の音楽 ~映画『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』を再考する~

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The Sherlock Holmes Museum, 221B Baker Street, Marylebone,
London

 

悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている。
<中略>
ここでの歌は挽歌(ばんか)、死者に呼びかける歌である。

 

(『悲しみの秘義』「6 彼方の世界へ届く歌」若松英輔 ナナロク社)

 

※一部ネタバレあり

「祈り」というクリスマスの贈り物

フランソワ・ジラール監督の最新作『天才ヴァイオリニストと消えた旋律(原題:The Song of Names)』〈2019年〉を観たのは、奇しくもクリスマスの日だった。

 

今年の5月に観た『ノマドランド』が、現代社会を鋭く映し出す鏡だとしたら、本作は歴史の暗い闇にスポットを当てた「祈り」の歌。どちらも映画館内で声を殺して落涙したが、前者は数々の大賞に輝き祝福された一方、後者はあまりに過小評価され、看過されている傑作だと思えてならない。

 

youtu.be

 

邦題は何やらトンチンカンなタイトルになっているが、英語の原題をほぼ忠実に訳せば「名前たちの歌」、あるいは意訳すると「死者たちの名の歌」となる。

 

この映画を観た後、ぜひサウンドトラックで「The Song of Names Prayer」を聴き直してほしい。ラビが発する、苦しげで悲痛に満ちた呻きのような歌。歌詞は、強制収容所で命を落とした人々の名前だけで、その調子が延々と続く。それはまさに、冒頭に引いた挽歌のありようだ。想像してみてほしい、愛する人の名が、そこに連なっているとしたら?

 

ナチスに追われてイギリスに渡ったユダヤ系ポーランド人の青年ドヴィドルが、ともすればヴァイオリニストとして天才の名を欲しいままにできたかもしれなかった、もし平和な時代に生きていれば自分の成功も受け入れてよかったかもしれないのに、彼は死者を弔うために同胞の名前を歌い継ぎ、祈りのために自らの生涯を賭すことをあえて選択したのだった。

 

ドヴィドルは「“歌”を演奏しに行くため」に、長い流浪の旅路につく。かつて同じ師の下で学んだライバルで、悲嘆のあまり精神を病んでしまったユゼフの前で弾いた。ある時は恋人のアンナを車中に置き、トレブリンカの無人の跡地で、その“歌”を奏でた。

 

眠れぬマーティンが一人部屋に籠もり、拙いイディッシュ語でカディッシュ(追悼の祈り)の言葉を呟くシーンを最後に、この映画は幕を閉じる。これが何を意味しているか? 妻に「カディッシュは歌わないの?」と聞かれて、「ドヴィドルは僕の家族でもないし、それに死んでもいないから」と返答したものの、本心では、ドヴィドルは紛れもなく彼の兄弟であり、そしてもう二度と相見えることはないと悟ったとき、ドヴィドルは彼の中で亡き者となったのだ。だからこそ、マーティンは精神的家族として、ドヴィドルのためにカディッシュを捧げたのである。

 

筆者はここに、ようやく「祈り」の何たるかを見た思いがする。祈りとは本来、人知れず孤独の中で行うものだ。誰かに見られなければ、評価され賞賛されなければ、意味がないのか? そういった目に見える浅薄な価値をことごとく覆し、他者への思慕を乗せて、目に見えない想いを何か大いなるものに託すという、この極めて聖なる行為の意味を、われわれ現代人はもう一度、よく噛みしめる必要があるように思う。

 

それぞれがキリスト教、ユダヤ教、仏教などと称し、表向きは異教徒の風習の一つに過ぎないかもしれないが、クリスマスの日に、これほど大いなる人生の贈り物があるだろうか。

 

彼らの魂のために
私たちの兄弟姉妹
イスラエルの子ら
聖なる者 清き者

 

ラパポート ああラパポート
ラパポート
ワルシャワのアヴルム

 

ラパポート
クトノのベレルとハイェ=ソロ
その子ヨッシー
そしてイェヒエル
そしてレア

 

彼らの思い出に祝福あれ
ラパポート
ハイム=ドヴィド
ラパポート
ジフリンのシュア=ハイム

 

ラパポート
イェラハミエルと彼の末娘
エルケ
そして幼きシュロイメ
シュニル=ザルマン
そしてリヴカ

 

彼らの思い出に祝福あれ
ワルシャワのアーニャ
ベラとその子供たち
ワルシャワのルーベンとリフケ
ジグムント・ラパポート
その妻エスター
2人の娘ペシア
そしてマルカ

 

(名前たちの歌 『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』パンフレットより抜粋)

 

音楽が持つ意味、音楽が果たす役割

ジラール監督の音楽に対する造詣の深さは、これまでのフィルモグラフィーからも窺い知ることができる。

 

  • 『グレン・グールドをめぐる32章(Thirty Two Short Films About Glenn Gould)』〈1993年〉
  • 『Inspired by Bach』J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番より「牢獄の響き(The Sound of the Carceri)」〈1997年〉 ※チェロ奏者ヨーヨー・マとの共同作品
  • 『レッド・バイオリン(The Red Violin)』〈1998年〉
  • 『ボーイ・ソプラノ ただひとつの歌声(Boychoir)』〈2014年〉

 

これらの映像作品のほか、シルク・ドゥ・ソレイユの舞台やリヒャルト・ワーグナーのオペラ『パルジファル』など、多数の演出作品がある。

 

同じくクラシック音楽やイディッシュ民謡などに啓発された類似の作品として、サリー・ポッター監督の『耳に残るは君の歌声(The Man Who Cried)』〈2000年〉が思い出されるが、こちらは複数の登場人物がそれぞれに関わる歌や音楽を数珠つなぎにしてストーリーを紡いでおり、使われている音楽の意味にさほどの一貫性が見られないため、内容の面ではいささか深さに欠けているように思う。

 

映画における音楽とは、オペラに代わる総合芸術にとって欠かせない要素であることは言うまでもないだろう。しかしジラール監督にとっての音楽は、それにとどまらない。音楽は時代を越えて、人と人をつなぐ「生きた証」にほかならないのだ。

 

前作の『レッド・バイオリン』では、クライマックスで次のような種明かしがされる。通常の発色よりも赤みを帯びた珍しい名器として、オークションで高額取引されているバイオリンに、実は300年以上も前、バイオリン職人の亡き妻の血がニスに混ぜられていたという事実が鑑定で判明する。自ら作り出した楽器に愛する者の血を注ぐことで、彼ら二人の「生きた証」が密やかに、しかし永遠に奏で続けられるのである。

 

本作では、その衝撃をさらに上回るほどの「生きた証」が、残酷な形で知らされることになる。21歳のドヴィドルは、華々しいデビューコンサートの本番前にいったん外出して帰途につくが、ロンドン北西部のユダヤ人居住区に迷い込み、そこでシナゴーグへ案内される。トレブリンカでの収容所生活を生き延びた5人のラビが、かの地で亡くなったユダヤの人々の名前を歌にして記憶していた。ラビが詠唱するその歌詞を聴き、ドヴィドルは初めて肉親が全滅したことを知り、慟哭する。その日、ドヴィドルが行方不明のまま、コンサートは中止となった。

 

35年後に再起を図って開催されたコンサートの前半で、見事にマックス・ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」を弾きこなし、慇懃に礼を払ったドヴィドルは、一転して後半では、コンサート用の正式な衣装を着替えてユダヤ民族の衣服を身に纏い、帽子を被り、ヴァイオリンを構えるとイディッシュの旋律を奏で始める。そう、これが、かつてシナゴーグでラビが詠唱した「名前たちの歌」を、彼の手でヴァイオリン用にアレンジしたメロディーなのである*1

 

その美しい哀愁を帯びた異国の旋律を聴いて感動したロンドンの聴衆は、ドヴィドルを絶賛し、総立ちで拍手を送った。しかしこの時、彼は一度も礼をせずに舞台から立ち去った。もはやドヴィドルにとって、ヴァイオリンの演奏で得られるであろう名声や富は、彼の人生において全く意味を為さなかったのだ。

 

これが、ジラール監督作品において音楽が果たす役割である。音楽は作品に色彩を施す単なる道具ではない。人間が生きていることの証明、あるいは、命そのものだといっても過言ではないだろう。

 

「名前たちの歌――
それは、この世から消え去った者たちの
思い出を称える歌なんです」

 

(フランソワ・ジラール 『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』パンフレットのインタビューより)

 

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トレブリンカの慰霊碑 from Wikimedia Commons
ここでもドヴィドルは人知れず「名前たちの歌」を弾いた

 

なぜ批評家や観客の評価に結びつかないのか

元来、作品に対する評価は、受け手の器によって大きく左右されるものである。そういった意味で、一部の批評家や観客の意見が雑多に集計された玉石混淆のレビューは、とても信用に値するものではないが、試しにWikipediaの記述からいくつか拾ってみよう。Rotten Tomatoesによれば、「本作は興味深い要素から作られているものの、本来あるべき形で満足させられるようなドラマには仕上がっていない」というのが、批評家の一致した見解だという。

 

興味深い要素(intriguing ingredients)とは、さしずめ「ああ、またお決まりのユダヤものか」といったところか。実際に、ホロコーストを扱った作品は枚挙にいとまがない。しかし揺るがぬ史実を前にして、一体誰を、何をもって「満足」させるというのだろう。よし史実に触発されたフィクションだったとして、果たして彼らの望む「納得のいく結末」というのは、お涙頂戴の民族の違いを超えた友情とか、35年の歳月を経て再起した天才のサクセスストーリーとか、そんなものなのか。所詮、腐ったトマトである。

 

おそらく、ハッピーエンドを期待した多くの観客にとって受け入れがたかったのは、最後にドヴィドルが選んだ「マーティンとの永遠の別れ」という道が、ある意味でユダヤ民族の閉鎖性を思わせたのだろう。あるいは、ドヴィドルがマーティンに対して突きつけた一方的な別れの宣言は、「人類みな兄弟であるから、仲よく共生すべき」という現代の思想的グローバル・スタンダードとは逆行するものに映ったのかもしれない。

 

しかし、ここで考えてみなければならないのは「祈り」である。ホロコーストで愛する肉親を奪われ、残された者たちの悲嘆を、いったい誰が汲み取ることができるというのか? 次々と生存者が世を去りつつある中、七十数年前に起きた酷い事実を語り継ぐことのできる者は誰なのか? 平和な時代しか知らない現代人には、到底、自分事として捉えることのできない、途方もなく重い責務である。だからこそ、ドヴィドルは亡き同胞の名前の歌を語り継ぎ、一生を賭して祈りと鎮魂の音楽を捧げようと決意したのに違いない。

 

筆者には、ドヴィドルが選び取った道はあまりに自然な心の成り行きのように思われた。これは宗教上の問題なのではない。彼が、内なる心の声に耳を傾けた結果なのだと思う。

 

生半可な邦題に対する苦言

それにしても、『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』という邦題は、金輪際いただけない。この日本語版タイトルを考えた人間は、おそらくこの映画の本質を全く理解していないのだろう。ジャンルも「ドラマ/スリラー/ミステリー」と紹介されていたものだから、実際、筆者がこの映画情報を受け取ったときには「どうせ音楽に絡めた、軽いサスペンスものだろう」と高と括り、正直なところ、当初は何の期待もしていなかったのだ。危うくこの傑作を見逃すところだった。

 

えてして人生は謎めいたものである。本作のあらすじこそ人捜しの話には違いないが、このような“謎”でスリラーやミステリーといわれても、観客は戸惑うばかりであろう。第一にスリラー映画とは、おおむね「謎によって観客の緊張感や不安感を煽ることを狙いにした映画」を指しており、およそこの作品の主題とはかけ離れている。

 

その点で言えば、原題の『The Song of Names』こそドヴィドルがヴァイオリンの音色で歌い上げた「死者たちの名を呼ぶ歌」、すなわち挽歌あるいは鎮魂歌(レクイエム)としてこの映画を象徴するものであり、まさにタイトルとしてふさわしい。これを日本の観客に対して、どれだけ細かなニュアンスまで伝え切れるかが、配給者としての資質を問われるのである。

*1:実際に作曲したのは、本作の音楽を手掛けたハワード・ショア〈Howard Shore〉だが、彼はこのために1950年代に録音された音源を集めて研究し、ユダヤ教の伝統的典礼についても主唱者〈cantor〉であるブルース・ルーベン〈Bruce Ruben〉から指導を受けている