同時代の連帯へといざなう、新しいペルシャ詩の世界 ~現代イラン女性詩人たちの闘い~

イスラム教の聖典『クルアーン』の見開きページ(東京ジャーミイ礼拝堂内)

 

ペンは剣よりも雄弁なり

ほんの1カ月前には、ペルシャの「ペ」の字もない生活を、漫然と送っていた。転機は、2023年10月7日にガザ地区のニュースが流れたのを、目の当たりにしたことだった。昨年2月以来のウクライナ侵攻に続き、脳天に直撃を喰らったようなショックを覚え、自らの非力と無知にただおろおろと狼狽するばかりであった。

 

「パレスチナ vs. イスラエル」の構図は、ともすれば「イスラム教 vs. ユダヤ教」と短絡的に報道されがちだが、この根深い確執が単なる宗教戦争ではないことは、少し歴史を紐解いてみれば分かることだ。ただあるのは、双方の破壊的な暴力の支配者が、双方の無実の市民を無差別に殺傷しているという、凄惨な構図だけである。

 

ここで正義の是非を概説したところで、何の意味もない。せいぜい日本の一市民としてできることは、政治的に操られやすいあらゆる民族差別的感情を排し、政治の外に出て、生きて死にゆく人々の存在を前にして、何もなす術もないことに、忸怩たる思いをするほかない。

 

人間であるとは、まさに責任を持つことだ。自分には関係がないように思われた悲惨をまえにして恥を知ることだ。

 

(『人間の土地』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 著/堀口大學 訳 新潮文庫)

 

今までさほど知ろうと努めてこなかった、イスラムやユダヤとは、いったい何なのか。それらの名を冠して生きている人々は、どのような価値観を持っているのか。少なくとも、安易な近視眼に陥ることなく、知ろうとする強靭な良識が、我々に求められている。

 

一国の様相を読み解くには、多角的な視点が必要である。いささか乱暴な言い方をすれば、日本という国も、世界の大半を敵に回して太平洋戦争を引き起こした張本人でありながら、その昔、紫式部が『源氏物語』を生んだ風土でもある。時代や状況が異なっても、同じ国の出来事には違いない。

 

時に、芸術文化や文学は、政治や経済で眩惑した目の曇りを取り払い、人間のユニヴァーサル(普遍的)な本然の姿を明らかにすることがある。我々は、メディアの報道を通して、敵味方に分断された世界の片鱗を見せつけられた時にこそ、むしろ一度立ち止まって、一冊の書物に立ち返る必要があるのだろう。

 

詩という入口に立つ 

筆者は常々、外国で書かれた詩にはどんな作品があるのか、興味をそそられてきた。詩という表現のかたちは、どこか風土的な香りを醸しながら、その土地に生きる個人の顔がよく見える。人間の集団的排他性を克服するには、国家という投網ではなく、個々の顔と出会うことが、最も効き目があるように思う。

 

なぜこの期に及んで、ペルシャ詩なのか? 答えはごく単純で、推しのアーティストがイラン出身だった、というだけの理由だ。イスラム文化圏は広く、いったいどこから始めてよいのか分からない――。そういう時に、オタク的な興味のアンテナは、向かうべき方角をおのずと導いてくれるものらしい。

 

ペルシャの人々にとって、詩がいかに身近なものであるか。それを如実に表している、端的かつ魅力的な一節がある。

 

イランでは、私達は小さい時から詩集や短歌にふれて育っています。その影響なのでしょうか? ポエムのような詩を男女問わずに、お互いに書いたり送ったりする習慣があります。

 

www.metroguide.jp

 

かつての日本人も、寺子屋で『論語』を諳んじ、仏壇の前で読経し、四季の移ろいを和歌や俳句に詠った人々である。しかし、もはや“コスパ志向”で文化・教養的な書物に何の価値をも見出さず、文学や詩を嗜んでいた古来の感覚にすっかり疎くなってしまった現代日本人には、なかなか復活させがたいカルチャーなのかもしれない。

 

欧米諸国に移住・亡命したイスラム文化圏出身の作家が多い理由の一つに、幼少の頃から『クルアーン』を暗唱する習慣を持っていると指摘されているのは、実に興味深い。

 

イラン出身の俳優・芸能タレントであるサヘル・ローズ氏は、紡ぐ言葉の美しさや卓越した表現に定評があるが、もしかしたらペルシャ語話者(その他にダリ語、タジク語も話すマルチリンガルでもある)として身につけた豊かな文学的素養が、日本語の語りにもそのまま表れているのではないか、と感じられてならない。果たして、ご本人はどのように思われるだろうか。

 

ドイツの詩人ゲーテにも影響を与えたペルシャの詩聖、ハーフェズ

ペルシア文学というと、素人でもまず思いつくのはハーフェズの名であろう。晩年のゲーテは、文明に汚されていない東洋への憧れを募らせ、『クルアーン』やハーフェズの詩にも嗜み、1819年に『西東詩集(West-östlicher Divan)」を上梓している。ちなみにドイツ語の原題に使われている「ディヴァン(Divan)」は、ペルシャ語で個人の詩集(دیوان)を意味する。

 

インドのガンジス川をロマンティックに夢想した、ハイネの「歌の翼に(Auf Flügeln des Gesanges)」にしても然り。19世紀のヨーロッパでは、東洋の甘美な異国情緒(エキゾチシズム)に酔いしれる文人が後を絶たなかったようだ。

 

抒情詩はえてして、原語で発せられる美しい旋律に乗せて朗誦されるのが、最も望ましい。しかしアラビア文字の読解すら不可能な、圧倒的大多数の日本人読者にとって手にすることができるのは、『東洋文庫 ハーフィズ詩集』(ハーフィズ 著/黒柳恒男 訳 平凡社)の一冊になるだろう。

 

Hafez, detail of an illumination in a Persian manuscript of the Divan of Hafez, 18th century; in the British Library, London from Wikimedia Commons

 

古めかしい訳語には硬さがあるが、それを差し引いても「ガザル(غزل=恋愛を主題にした定型抒情詩)」の美しい色彩に満ちた数々の詩編の魅力が失われることはない。

 

筆者が抱いた印象として、思わずユダヤ経典『旧約聖書』の「雅歌」を彷彿とさせた。西洋の諸言語で「Song of Songs」、つまり「歌の中の歌」という最大級の賛辞をもって称えられる、まぎれもない男女の性愛を描いた一連の詩だが、どうやら古代の近東に根差した慣習を描いているという(Pope, Marvin H. 2007. Song of Songs. Yale University Press)。

 

両者が似ているとは言わないまでも、現代の圧政とは程遠い、おおらかな人間賛歌を見ることができる点では、なんとも幸せな邂逅ではないか。

 

2007年には、日本人俳優の麻生久美子が果敢にペルシャ語での演技に挑戦した『ハーフェズ ペルシャの詩(うた)』が公開された。こちらの「ハーフェズ」は歴史上の人物を描いているわけではなく、ハーフェズの詩にインスピレーションを得て創作された、現代を舞台にした悲恋の物語。さしずめ、イラン版『ロミオとジュリエット』といった仕上がりになっている。

 

www.bitters.co.jp

 

ペルシャ詩に聴く、近現代イラン女性の叫び

紫式部もいい。ハーフェズもいい。しかし筆者には、古典の偉大な巨人よりも、同時代を生きるイランの女性たちが、どのような想いで言葉を紡いできたのか、そちらの方に興味が大きく惹きつけられた。

 

イラン文学において、女性詩人の作品とその人生は、社会的に適切ではないという理由から、その多くが歴史上の記録として重視されることはなく、次第に色褪せ、黙殺されてきた。彼女たちの人生は曖昧な記録としてしか残されず、その作品も散逸・欠損、もしくは規制された結果、我々が彼女たちの詩に出会う機会はほとんどない。

 

(ザフラー・ターヘリー『古鏡の沈黙 立憲革命期のあるムスリム女性の叫び』解説より)

 

イラン立憲革命期(1906年から1911年にかけてイランで起こった革命)には、ペルシャ四大女流詩人の一人といわれるパルヴィーン・エーテサーミー(Parvīn E'tesāmī、1907年~1941年)や、雅号「ジャーレ(Žāleh、“露”という意味)」の名で近代フェミニズムの香り高い詩集を残したアーラム=タージ・ガーエムマガーミー(Ālamtāj Qāʾem-maqāmi、1883年~1947年)などがいた。

 

パルヴィーン・エーテサーミーの肖像 from Wikimedia Commons

 

パルヴィーンはタブリーズの名家に生まれ、当時はごく稀だった米国系女学校に学び、17歳で卒業した。西欧式の教育を受けた彼女は、近代的で自由な思想を謳歌したことから、イランの伝統的な家庭には到底溶け込めず、結婚による拘束に嫌気がさして早々に離婚したという。

 

ジャーレもまた、イランの政治・文学の分野で重要な地位にあった家柄に生まれ、二人とも高い教養を備えた名門出身の才女という点で、共通している。そして彼女の詩に一貫しているのは、二回りほども年上の男性と結婚させられ、忍従を強いられることへの抵抗詩・抵抗歌という姿勢だ。

 

...... 彼女は一つの結論に達する。それは、これらすべての社会的な事柄について、宗教のうちで条件付けがなされているにもかかわらず、それらが看過されている、ということだった。彼女の批判は明らかに、イスラームの教義を改変し女性たちに社会的な活動の権利を与えてこなかった男性たちに向けられたものであり、その点で、彼女の言説は非常に「男性批判的」である。

 

(ザフラー・ターヘリー 同上 序より)

 

一方、市民の権利が多分に抑圧されたイラン革命後(1978年1月~)の現代イラン社会において、果たして女性詩人はどれほど自らの声で発表することが許されているのだろうか? もしかしたら、圧政下で完全に彼女たちの声は封じられたままなのではないか? 内情を知らない我々日本人には、全く未知の世界だと言わざるを得ない。

 

ところが一部では、それは少し杞憂だったようで、多くのイラン女性たちが、国外で新しい時代のペルシャ詩を発信していることを知り、むしろうれしい誤算だった。本稿ではその中から、英語で併記された詩の意味を手がかりに、数編の作品を紹介したいと思う。

 

国外から母国を見つめる女性たちのまなざし

約60年間のイラン女性の声を集めたアンソロジー

"Song of the Ground Jay: Poems by Iranian Women, 1960-2022" selected and translated by Mojdeh Bahar (2023, Mage Publishers)

 

『イランサバクガラスの歌』という名を冠した、このユニークなペルシャ詩の英訳アンソロジーについて、少し触れておこう。

 

イランサバクガラスというのは、砂漠に生息するイランの固有種で、生息環境に完全に適した、砂色と黒と白の模様をまとった鳥のこと。砂漠を駆け抜ける姿が颯爽として、環境に適応しやすく、それでいながら美しい鳴き声や力強さが際立っている―—。この強靭な生命力こそが、ペルシャ女性の象徴(シンボル)なのだという。

 

イランサバクガラス(ラテン:Podoces pleskei/英:Pleske's ground jay)from Wikimedia Commons

 

20世紀は、批評家や作家、脚本家、詩人として活躍するイラン女性の数が、著しい増加を見せた時代である。ある別のアンソロジーによれば、前世紀に300人以上の女性詩人が誕生したといわれる。本書に収められている作品の詩人は、(西欧化・世俗化を推進した)パフラヴィー2世(パーレビ国王)が即位した1941年9月から、イラン革命を経て現在のイラン・イスラム共和国に至るまでの、100人の女性詩人による作品を所収している。
〈中略〉
私はこれらの詩が、読者の体験や心と共振してくれることを願う。

 

モジュデ・バハール 編者・翻訳者 Introductionより
※( )は筆者註

 

本書で特徴的なのは、どの詩人も国内外で大学・大学院を卒業した、高学歴のプロフェッショナルだということだ。ゆえに、市井の人々の声ともまた違った視点で、同時代のイラン社会や世界を凝視している。

 

I drop in on hope
More than anyone, I call out
Rira, Rira
I forget the world is at war
I speak of peace again
So they will forget me more


希望を胸に 私はなにげなく立ち寄って
「リラ、リラ!」と
誰よりも 大きな声で呼ぶ
世界が戦争をしていることも忘れて
そして再び 平和を口にするの
みんなが 平和の代わりに 私を忘れ去ってくれるように

 

リラ・アッバシ(Rira Abbasi)

 

アッバシ氏は、イランのホラマーバード(Khorramabad)に生まれ、現在は英国イングランド在住の平和活動家である。「International Festival of Peace Poetry in Iran」の創設者・ディレクターも務めており、前掲の詩は彼女の信念がそのままかたちとなった一作。

 

原語のアラビア文字で書かれたペルシャ語とともに、英語も併記された対訳形式なので、詩と語学に興味のある人には面白い一冊かもしれない。

 

ソニア・バラサニアン:少数民族としてのアイデンティティーが国境の是非を問う

とても印象深い、一人のアーティストに出会った。最後に、彼女の詩で本稿を締めくくってみたい。

 

ソニア・バラサニアン(Sonia Balassanian)は、アルメニア系イラン人の画家・彫刻家・詩人。米国に留学しアートを学んだが、特に1979年以降(つまり、イラン革命以後)は「ポリティカル・アート」をテーマとした抽象画を発表し続け、精力的に社会活動も行っている。

 

www.soniabalassanian.com

 

バラサニアンの公式ウェブサイトに、「国境のアイデンティティー」と題された一節が掲載されているが、これは彼女が2009年の夏に、歴史上重要なアルメニアの地域(現トルコ東部)へ旅した際に書かれたもの。19世紀末と20世紀初頭の二度にわたり、オスマン帝国領内で起きたアルメニア人虐殺の歴史を、彷彿とさせるに余りある短詩だ。

 

I am a shadow of my past and present,
between identities and countries.
How can I cross
these boundaries,
these borders,
these lands?

 

私は 過去と現在の影
アイデンティティーと国家の狭間にいる
どうしたら この境目を、国境を、大地を
越えられようか?

 

しかしバラサニアンが、アイデンティティーと国境を意識したのは、これが初めてではなかったという(Yaghoobi, Claudia. 2023. Iranian Armenian Poetry: Sonia Balassanian Crossing Borders of Consciousness)。アルメニアへの旅よりも25年前の1985年、イラン・イラク戦争(1980年~1988年)が激化する渦中に、彼女はもう一つの詩を書いていたのだった。

 

We think about the miracle of life
of earth,
sun, light.

 

We destroy circumferences
Erase the borders.

 

They suffocate the light,
In madness, pound the steel chains,
Constrain the laughter of the earth,
Close the shutters of the sky,
Erase the windows blue,
and encircle themselves in the spider’s web.

 

Mounted on hurricanes of the world
We dash into the suns of light …

 

 

私たちは 命の奇跡について考える
大地の奇跡
太陽の奇跡
光の奇跡

 

私たちは 周辺の垣根を取り払い
国境を消し去る

 

国境は 光の息の根を止め
狂気のうちに 鉄の鎖を打ち込み
大地の笑みを縮ませ
青空の天蓋を閉めきり
窓の青色をかき消して
みずからも 蜘蛛の巣にとらわれる

 

世界に吹き荒れる 嵐に乗って
私たちは 太陽の光の中へ 飛び込む…

 

国境で引き裂かれた世界にあって、民族が、人種が、人間が交わるとは、どういうことか――。バラサニアンのアートが持つ力とは、分離主義やナショナリズムを煽る覇権主義的な言説を、ことごとく破壊する意志であり、国境を超越したいと願う、人間の普遍的な願いそのものなのだろう。

 

 

 

【関連資料】

以下は現在、国内外で入手可能な現代ペルシャ詩集の一例。マイナーな文学ジャンルだけに、興味のある方にとってご参考の一助になれば幸いである。

 

《日本語版》

 

《英語版》

 

さらに、現代イラン人女性詩人に特化した、カナダのトロント大学が運営する膨大なデジタルアーカイブがある。内容の充実度は、他サイトの追随を許さないクオリティーを誇る。

 

Women Poets Iranica
The University of Toronto, in collaboration with the Encyclopaedia Iranica Foundation (EIF)

日本に根づくイスラム文化の拠点・東京ジャーミイ 見学ルポ

東京ジャーミイの礼拝堂(東京都渋谷区大山町)

 

長生きする者は多くを知る。しかし旅する者はそれ以上を知る。

من يعيش يرى ,لكن من يسافر يرى أكثر

(アラブの諺)

 

日本国内でもイスラム世界に触れられる、貴重な信仰の場

異郷を旅することは、ほぼ息をすることに等しい――それほど旅好きの人間とっては、コロナ禍で生きることは大変厳しいものです。新型コロナウイルスのパンデミックにより、2020年初頭から3年連続で海外旅行に出掛けることが困難になっている中、考えることはただ一つ。「日本国内でも異文化体験をしたい!」ということに尽きます。

 

2021年2月に、俳優・タレントのサヘル・ローズさんが公式YouTubeで紹介していたのを視聴して以来、ずっと念願だった東京ジャーミイ・ディヤーナト トルコ文化センターでしたが、2022年のGWに満を持して、ようやく訪れることができました。このご時勢に考えることは皆一緒(?)らしく、日本人訪問者の姿も数多く見られたのは意外な驚き。まさに「日本で旅する異文化世界」、というところでしょうか。

 

youtu.be

 

東京ジャーミイの広報・出版活動を担当されている下山茂氏は、非ムスリムの日本人向けに定期的な見学会のガイドを務めておられますが、筆者も幸い、このガイドツアーに飛び入りで参加することができました。下山氏ご自身もイスラム教徒であるだけに、イスラムの歴史・文化には大変造詣が深く、一般の日本人なら「へぇ~」と感嘆するような豆知識がふんだんに盛り込まれていました。

 

本記事では、下山氏が熱弁を振るってくださったお話を中心に、現地で撮影した写真や、関連するYouTube動画などをあれこれ盛り込みながらご紹介していきたいと思います。

 

タタールからトルコへ――東京ジャーミイが辿った歴史的変遷

日本に最初期のモスクを立てたタタール人とは?

イスラム文化圏というと、どうしてもイラン、イラクなどアラビア半島諸国をイメージしがちですが、日本へ最初にイスラム教をもたらしたのはタタール人でした。

 

日本におけるイスラム教の歴史は比較的浅く、20世紀初頭に始まります。1917年のロシア革命によって故国を追われ、亡命してきたカザン州のタタール人が日本で初めてイスラム教寺院のモスクを建立したのは、1935年の神戸でした(現神戸ムスリムモスク)。次いで1938年、東京で新たに「東京回教礼拝堂(現東京ジャーミイ)」が建てられました。これは、盧溝橋事件が起こって日中戦争の火蓋が切られた翌年のことです。

 

タタールという民族の歴史はあまりに複雑で、時代や場所によって人々の実態が異なるために、なかなか一筋縄ではいきません。日本では、中国から伝わった「韃靼(だったん)」という遊牧騎馬民族の呼称で知られますが、東はモンゴル高原の東北部、シベリア、カザフステップなど、西はヴォルガ川流域、クリミア半島、東欧のリトアニアなどまで広域に住む人々の総称であり、髪の色もアジア系(黒・茶)であったり、ヨーロッパ系(ブロンド・赤毛)でもあります。

 

世界的に有名なタタール人としては、フィギュアスケート選手のアリーナ・ザギトワ、カミラ・ワリエワ、そしてソプラノ歌手のアイーダ・ガリフッリーナが挙げられます。彼女達のエキゾチックな美しさを引き立たせる化粧を施す前の動画や写真を見ると、とてもアジア的な顔立ちをしているので、なんとなく親近感が湧くかもしれません。

 

歴史好きの人なら、チンギス・ハーンの父、イェスゲイが宿敵のタタール族を捕えたり、恨みを買って毒殺されたりでややこしい関係にあったという逸話で、タタールの名を耳にしたことがあるかもしれません。その後、タタール族はモンゴル帝国傘下に入ることで、ヨーロッパ遠征とともに西方へも移動していきます。そして時代は下って、ロシア革命。回り回って、近代に入ってようやくタタール人が日本人と邂逅したのも、歴史が生み出した数奇な運命なのでしょう。

 

二度の大戦を経てつながったトルコと日本

1938年の竣工から現在に至るまでの経緯については、「東京ジャーミイの歴史」に詳しく書かれているので、ここではあえて再掲しません。ただ、近現代の歴史のほとんどがそうであるように、人々が他国への移動を余儀なくされたのは、商業活動の場を転換・拡充する目的を別として、革命や戦争などの極めて政治的要因が引き金となって、やむを得ず逃れてきた結果でした。

 

現代日本のように、神戸のイスラム文化センターや東京のトルコ文化センターなどが中心となり、非ムスリムの日本人でもオープンに国境を越えた文化交流ができるようになったのは、ようやく平和を享受できる戦後の時代になってからのことです。

 

東京ジャーミイの記述によれば、ロシアの社会主義革命で迫害を受けたイスラム教徒の中でも、「カザン州のトルコ人達」が中央アジアを経由して 満州へと移動し、さらに韓国や日本へ移住したとあります。カザン州とあるのは、おそらく1708年から1920年にかけて設置されたロシア帝国の県(グベールニヤ)の一つであったカザン県を指していると思われます(現在はほぼその領域が、ロシア内のタタールスタン共和国として引き継がれている)。

 

ただ、1917年当時のトルコはまだオスマン帝国で、いくら広範囲にわたり勢力を伸ばしていたとはいえ、黒海よりもはるか北東に位置しているカザン県までは領土としていませんでした。ですから、これは下の地図などを踏まえた憶測の範疇を超えないものの、多民族国家であったオスマン帝国出身のタタール人が、何かしらの活動を行うためにカザン県内に滞在していたのではないでしょうか。

 

"Southern Asia 1917: Russian Revolution" from Omniatlas

 

実は、第一次世界大戦(1914~1918年)、第二次世界大戦(1939~1945年)を通じて、オスマン帝国またはトルコ共和国(1923年に建国)は、日本と敵対していました。第一次世界大戦では、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア王国とともに中央同盟国として参戦したオスマン帝国は敗戦。その後のオスマン帝国は、連合国(協商国)を中心とするイギリス、フランス、イタリア、ギリシャ、アルメニア、クルディスタン、そしてわずかに残ったトルコ領に割譲され、600年以上も続いたイスラム教の帝国が滅亡しました。

 

次いで第二次世界大戦には、トルコ共和国として連合国に参戦。残念ながら、枢軸国側についた日本とは敵対関係となります。戦時下での、東京回教礼拝堂や神戸モスリム・モスク(当時)がどのような状況に置かれていたのかは記されておらず、ここでは知ることができません。しかし半世紀以上にわたり、これらのモスクが在日ムスリムの人々にとって心の拠り所となってきたことは疑いなく、トルコ以外の土地出身のイスラム教徒にも礼拝の門戸が開かれていたのは特筆すべきでしょう。

 

老朽化によって1986年にいったん取り壊された東京回教礼拝堂は、2000年にトルコ本国の支援を受けて、東京ジャーミイ建設のために建築材が取り寄せられ、技術者・職工も来日したとのことです。かくして、私達が今でも目にすることができる、オスマン様式の美しいモスクが誕生しました。ちなみに「ジャーミイ(camii)」とは、トルコ語で「人の集まる場所、転じて大きなモスク」の意。

 

現在、日本に住むイスラム教徒の数は約23万人(そのうち約20%が改宗した日本人)で、ムサッラー(小規模な礼拝所)を含めると140以上のモスクが建てられているといわれています(日本イスラーム文化センターより)。

 

なんだかんだと前置きが長くなりましたが、さあ、いよいよバーチャルツアーに入りたいと思います!

 

いざ、東京ジャーミイの中へ

【見学の前に……】

一般公開されていますが、神聖な宗教施設ですので、メディア関係者・個人問わず、見学の際には事前に公式ウェブサイトで「見学に関する諸注意」をよく読んでおいてください。

 

以下、個人向けの主な注意事項を明記しておきます:

  • 礼拝場内での写真・ビデオ撮影は、事前の許可を取れば、建物等は可能。なお、他の来館者の方々や信徒の方々、また礼拝中の方々を被写体にしない
  • 礼拝中の写真・ビデオ撮影は禁止
  • 礼拝中の見学は可能。なお、後方に静かに座り、場内を歩き回らない。
  • 礼拝場の2階は、女性専用の礼拝所のため、男性の入場は禁止
  • 女性はヒジャブとして、ストールかスカーフ(色、柄、形は不問)を着用。
  • 性別を問わず、肌を大幅に露出するハーフ/ショートパンツ、キャミソール、タンクトップ、ミニスカート等での来場は控える。

 

ちゃんと守りましたね? それでは参りましょう!

 

東京ジャーミイのエントランス

 

異国風の瀟洒な高い門を抜けると、そこはイスラム世界であった

最寄りの代々木上原駅から北口を出て、左へ進むこと徒歩5分、緩やかな坂道になっている井の頭通り沿いに、東京ジャーミイが立地しています。白亜を基調としたオスマン・トルコ様式の建物に刻まれているアラビア文字が、見る人を一気に異国情緒溢れる世界へと誘ってくれること請け合い。不審者でない限り(!)、来る者は拒まず、誰でも中に入れてくれます。

 

1階のホールは、ちょっとした書籍売り場や、トルコ風客間を模したゲストルーム、創設された当時以降の古い写真を飾った戸棚などを擁しているほか、ラマダン明けに約300人分の食事も振る舞える食堂を兼ねた、広い多目的ホールが隣接しています。さらに奥へ進めば、「ハラール・マーケット」という、文字通りハラール認証された食料・お菓子・雑貨・土産物の売店があるので、見学後にぜひ立ち寄ってみたいものです。

 

さて、礼拝堂へと続く階段を上ってみましょう。

 

礼拝堂の入口

 

女性はここで、ヒジャブ代わりにスカーフやストールを頭に巻いてください。入口では忘れた人のために貸し出しも行っています。ちなみに、筆者が持参した90cm×90cm大の正方形スカーフを巻いてみると、微妙に長さが足りず、手ぬぐいでほっかむり(頬被り)したひょっとこ状態に……(恥)。まあ、顔以外の頭部がすっぽり隠れればいいんだけど。まともに綺麗な巻き方をしたい人は、事前に予習しておくことをおすすめします(具体的な方法は、末尾に動画を掲載しているのでご参考までに)。

 

礼拝堂の中へ一歩入れば、そこはもうイスラムの世界!

 

見上げてみれば、明るく淡い青、すなわちターコイズブルー(turquoise blue=トルコ石の青)を基調として、大小の幾何学文様に彩られたドーム型の高い天井を仰ぐことができます。アラビア書道を模して枝分かれした腕木に、たくさんのランプが下がっている巨大なシャンデリアも見事。まさに「オスマン様式の美、ここに極まれり」といった風情です。

 

お祈りを捧げる正面は、キブラ(قبلة / qibla)と呼ばれるメッカの方角を指す。思わず感嘆のため息が出るほど煌びやかで美しい、天井に描かれた幾何学文様の装飾

 

かつて、江戸っ子のタタール人タレントがいた

ここで一つ、下山氏が話してくださった意外なエピソードをご紹介します。筆者は全く知りませんでしたが、戦後日本に活躍し、巧みな江戸弁を話す、いわゆる外国人タレントとして知られたロイ・ジェームス(Roy James、1929~1982年)という方がいたそうです。本名はハンナン・サファ。後に日本に帰化して六条祐道と改名し、結婚後は湯浅祐道となりました。

 

youtu.be

 

なぜいきなり、ロイ・ジェームスさんなのでしょうか? ご本人は東京の下町生まれでしたが、ロシア革命で亡命してきたカザン・タタール人のアイナン・ムハンマド・サファ氏を父に持つトルコ人でもありました。アイナン・サファ氏は、東京回教礼拝堂の第5代責任者にしてイマーム(導師)を務めた人物でもあります。

 

祭壇の右隣に設置されているのは、イマームが集団礼拝の際に説教を行うための階段状の説教壇

 

ロイ・ジェームズさんが、モンゴロイド(アジア系)というよりコーカソイド(ヨーロッパ系)の顔立ちにとても近いのは、ヴォルガ川中流域やウラル山脈周辺の「イデル=ウラル」と呼ばれる地域に住んでいるタタール人の血を引いているからかもしれません。

 

日本語は言うまでもなく、英語も達者。俳優として出演した映画でも、米兵など外国人の役を演じているほどですから、Roy Jamesなんていう、いかにも英語風の芸名を名乗っていれば、イギリス人とフランス人さえもろくに見分けがつかない圧倒的多くの日本人の目には、仮にロイさんが「私はアメリカ人ですよ」と冗談を言っても、絶対にバレないと思う。まあ、ちょろい日本人達……(苦笑)。

 

意外と知られていない? 私達も身近に享受しているイスラム文明の恩恵あれこれ

明治時代以降、アメリカや西欧から多大な影響を受けてきた日本は、それ以外の世界をほとんど知らずに今日にまで至っているといっても過言ではありません。逆に現代の欧米では、7世紀以降のイスラム文明がもたらした数々の功績を再評価する動きが活発化しています。

 

例えば「1001 Inventions」は、イギリスを拠点とした科学者らによる非営利の国際組織ですが、世界の科学・文化的遺産に貢献した創造的なイスラム世界に着目。ガイドの下山氏も、以下のパネルを用意して私達に見せてくれましたが、意外に身近な所でイスラム文明の恩恵に与っていることを知りました。

 

コーヒー然り、アラビア数字然り、チューリップ然り、そのほとんどがヨーロッパ経由で日本に伝わっています。それらの歴史的裏話が、奥深くて面白い。

 

Discover the Muslim Scientific Heritage in Our World from 1001 Inventions

 

ハウステンボスもびっくり! チューリップはオランダ原産ではなかった

東京ジャーミイがトルコゆかりの建築であることを知るのに、とても象徴的なシンボルがあります。それは花。特にチューリップの原種です。トルコの国花にもなっているチューリップですが、古くはオスマン帝国時代から歴代の皇帝に愛されたことで、この花をモチーフにした服飾や工芸美術品が流行し、いわばチューリップ文化が開花しました。

 

チューリップと並んで、イスラム世界で愛された花にカーネーションとバラがあります。偶像崇拝を禁止しているモスクでは、人物や動物を描くことが忌避される代わりに、しばしば草花などをモチーフとする幾何学文様が、アラベスクというイスラム美術に結実しました。中でも、花びらの細やかさが美しいカーネーションはその代表格。また、イスラム世界において、白バラは預言者ムハンマドを表し、赤バラが唯一神アッラーを表すという説もあるとか。

 

温暖な気候で多種多様の花々が咲き誇る中近東では、精神病院での治療法として、音楽や噴水の音を聴かせるとともに、花を愛でるという方法もあったそうです。薬漬けにしがちな近代医学よりも先駆けて、ある意味、自然を採り入れた代替療法が発達していたのかもしれません。

 

東京ジャーミイの礼拝堂の中にも、チューリップをモチーフとした文様を随所に見ることができます。

 

壁に描かれたシンボリックなチューリップの模様

こんな片隅にもさりげなくチューリップが描かれている

 

アナトリア(現トルコの一部)やイラン、中央アジアのパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カザフスタンのステップ地帯やキルギスなどが原産のチューリップ。地中海沿岸や西アジアが原産のカーネーション。古代オリエントの時代から自生していたバラ。いずれも後世にヨーロッパへ伝わり、世界的に人気爆発。野バラは日本でも『万葉集』や『常陸風土記』(常陸国は今の茨城県ですから!)に記録されるほどに古くからありましたが、西洋バラを含めてヨーロッパで品種改良されたチューリップやカーネーションが日本にもたらされたのは、江戸時代以降だったようです。

 

ついでに夢をぶっ壊すようなエピソードを言うと、長崎オランダ村(2001年に閉園)と同じコンセプトで造られたテーマパーク「ハウステンボス」に植えられているチューリップは、ことごとく人工的に土壌改良し、植栽しただけのこと。確かに長崎の出島はオランダと深い関わりがあったものの、最初からチューリップが名物だったわけではありません。バブリーな日本人が好みそうなヨーロッパのイメージを丸ごとテーマパークに仕立てて、なんとなく「オランダといえばチューリップ!」みたいに浅薄なアイディアで売り出した、いわばなんちゃって観光地なわけです、ハイ(笑)。

 

カザフスタンの高地に咲くチューリップの原種 from ユーラシア旅行社 添乗員ブログ「添乗見聞録」

 

イスラム世界は数学と天文学の発達の担い手

イスラム教(イスラーム)は、西暦610年(推定)にアラビア半島のメッカ郊外でムハンマドが唯一神アッラーの啓示を受けたことが発祥とされています。当時のメッカは、アフリカ、インド、東南アジア各地から商人がひしめく大都市でした。預言者となる以前のムハンマドも、実は元商人。ここではイスラム教自体についてはさておき、当時のイスラム世界がいかに先進的だったかを見てみたいと思います。

 

国から国へ、東西南北に物資を運搬して利益を得る隊商交易は、当然ながら商業だけではなく、多国間での文化交流を発展させました。そして月と星は、商人のキャラバンを導く印であり、こういったイスラム世界を中心とした国際交易が、おのずと天文学や数学、地理学などの発達を促したわけです。8~9世紀に活躍したイスラム科学者、アル=フワーリズミー(الخوارزمي/al-Khuwārizmī)が有名ですね。IT用語の「アルゴリズム(algorithm)」も彼の名に由来しています。

 

イスラム世界は、現代の西側社会がイメージとして抱きがちな“野蛮な砂漠”では決してなかったようです。830年にバグダッドで設立された図書館「知恵の館」に巨大な翻訳センターがギリシャに設置されたおかげで、古代ギリシャ・ローマ文明の膨大な文献がアラビア語へ訳されました。数学、とりわけユークリッド幾何学がイスラム世界で発達し、イスラム美術のアラベスク(arabesque)様式の原型となったことは有名です。

 

偶像崇拝が禁じられたモスクで用いられる描画や建築が、神々しいまでの極めて精緻な幾何学文様となっていることに頷ける気がしますね。

 

東京ジャーミイ礼拝堂の四方に見られる彫刻。「細部にも神は宿る」とはまさにこのこと⁉

 

古代のインド数字に起源を持つ算用数字ですが、今でも「アラビア数字(Arabic numerals)」と呼ばれるのは、単純にイスラム世界からヨーロッパへと伝わったからです。数学が超苦手な人間にとっては、甚だ迷惑だったかもしれない……。高校のA-Levelで常に赤点ギリギリだった劣等生は、この私です(涙)。

 

下山氏がパネルを用いて説明してくださった十進法ですが、1~9までの形は、それぞれの数字が持つ「角の数(つまり、1 angle, 2 angles......)」によって決まり、数字が大きくなるにつれて円(0=ゼロ)に近づくというものでした。ちなみに数字の「7」については、欧米式に真ん中に小さな横線が入ります。

 

つまり、次のような図になるわけですね。

 

アラビア数字に含まれる角の数 from Quora "Aren't Arabic numbers actually Hindu?"

 

しかし、本記事を書くにあたり、ど素人なのでいろいろ調べているうちに、どうやら現在はアラビア文字が角の数ではないとする説の方が有力になっているようでした。然るべき公的機関が出している情報は見当たらなかったのですが、例えば高校数学の先生が説明している、下の動画などがそうです(他にも多数あり)。

 

この「角の数」説、とっても魅力的だし意表を付くので、東京ジャーミイのガイドツアーに参加していた人達一同、「おおーっ!」と驚きのどよめきが湧いていました。面白いんですけどねー。

 

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ムスリムもびっくり! 世界中で愛されるコーヒー

「昔アラブの偉いお坊さんが~♪」の歌い出しで、印象的に始まるポピュラーソングがありましたね。もともとは、ベネズエラのアルパ奏者、ウーゴ・ブランコ(Hugo Blanco)が歌ったナンバー「Moliendo Café(コーヒーを挽きながら)」でしたが、その後、世界各地で流行歌手がこの曲をカバーし、爆発的な人気を呼びます。日本でも1960年代に西田佐知子が歌った「コーヒー・ルンバ」を皮切りに、カバーした歌手は数知れず。筆者の世代なら、断然、荻野目洋子だな~。

 

いや、ちょっと待て。ルンバ(家電じゃないぞ)は、そもそもキューバ発祥の音楽だよね? イスラム教にお坊さんはいないよね?(イマーム「導師」ならいるけれど、聖職者は事実上いないことになっている)――などなど、ツッコミどころ満載の歌ですが、コーヒーがイスラム世界で発祥したことを物語ってくれる、名曲ならぬ”迷曲”には違いありません。

 

 

それぞれの祈りの場

礼拝堂の中では、男女別に祈りのスペースが分かれています。これは、公共の場で女性は家族以外の男性と同席できないという、クルアーンの教えに由来するものだそうで、東京ジャーミイでは男性が前方の1階、女性が後方の2階に指定されていました。

 

女性用の礼拝所へ行くために、ここから階段を上る(男子禁制)

2階の女性用礼拝所

 

下山氏の解説によると、その理由について「そばに異性がいたら祈りに集中できないから」というものでした。う~む、なるほど……。

 

イスラム教徒の女性達は、見晴らしのよい2階から、階下の男達を見下ろしながら、いったい何を思い、祈るのか……。いつか、ご本人達にお聞きしてみたい気もします。

 

『クルアーン(コーラン)』の聖典

 

ハラール・マーケットをのぞいてみよう

見学が終わったら、ぜひ東京ジャーミイに併設された「ハラール・マーケット」に立ち寄ってみてください。中には「えっ、これもハラールになっているの?」と思うような、普段のスーパーでなじみのある食材も。なんとインスタント麺もありました!

 

ちなみに筆者は、インドネシア製のえびせんや、クルアーンのアラビア文字を細かく刻んだ甲冑の置物を、めでたくお買い上げした次第です。

 

普通のスーパーでも売られていそうなインスタント麺も、ここでは全てハラール認証の商品が並んでいる

インドネシア産のえびせん

「50%引き」の文字が思わず目を引く、かっこいい甲冑型の置物

トルコの甲冑を模した置物。一目惚れして迷わずゲット!

 

こちらは、ハラールマーケットで入手した甲冑の置物です。よく目を凝らして、胴衣に描かれている紋様を見ると、極めて細かいアラビア文字が刻まれていますが、これは『クルアーン』の一節。店員さんは当初、細かすぎてこの文字の存在には気づかなかったようですが、レジで尋ねてみると、ご親切にも文字を読んでくれました。

 

胴衣に刻まれた極小の文字。ここにも細部の神が宿る……⁉

 

ウェブマガジン「雛形」が発信している次の記事は、イスラム教のことをほとんど知らない日本人向けに、とても真摯な筆致で下山氏へのインタビューを綴っています。

 

誤解や偏見は、知らないこと、無知から生まれます。そして、偏見は放っておくと、差別になってしまうのです。
   <中略>
異文化共生、異文化理解というのは、並大抵のことではありません。
   <中略>
ひとりでも多くの日本の人々にここを訪れてほしいと思っています。撮影をしたり、その美しさを発信したりしてくれることも歓迎です。メディアやSNSなどでこの場所を知って、見学に来てくださった方の多くが、私の話を熱心に聴いてくださいますから。どんなきっかけであっても、イスラムという大きな文明に目を向けてもらえたらと思うのです。

 

www.hinagata-mag.com

 

<おまけ:スカーフの巻き方>

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受難のウクライナ ~今こそ見られるべき「ホロドモール」の映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』~

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国立ホロドモール虐殺記念博物館(右の建物)。中央は世界遺産のペチェールスカヤ大修道院(Kyiv, Ukraine)from Wikimedia Commons

 

<朗唱>
スターリンは王座で バイオリンを弾く
彼はしかめっ面で パンを生む地方を見る
木の実でできた楽器 悲嘆が生んだ弓
彼が指令を弾けば それは大地に鳴り響く
そしてスターリンは弦を切り 演奏をやめた
地方では大勢が死に 生き残りは少しだけ

 

<歌唱>
飢えと寒さが 家の中を満たしている
食べるものはなく 寝る場所はない
私たちの隣人は もう正気を失ってしまった
そして ついに 自分の子供を食べた

 

(映画の挿入歌『Piosenka Głodnych Dzieci(飢えた子供達の歌)』より)

 

※一部ネタバレあり

繰り返される虐殺の歴史:ロシアの独裁者によるウクライナ侵略

およそ1世紀前の悲劇が、21世紀の今になって再び息を吹き返している。2022年2月24日、ロシアはウクライナへ軍事侵攻を開始した。

 

世界では至る所で、ますます拍車のかかる格差社会を肯定し、権威主義的な政治体制が強化されつつあり、もはや封建時代や全体主義の時代へと逆行しているのではないかとさえ、悲観せざるを得ない状況が続いている。

 

言わずもがな、国際社会から圧倒的な非難を浴びている、ウラジーミル・プーチン大統領が断行したウクライナ侵略は、異常なまでの「大ロシア主義」的思想に根差しているといわれており、明らかに史上に残る残虐行為として、我々の記憶に焼きつけられるだろう。

 

アグニェシュカ・ホランド(Agnieszka Holland)監督がメガホンを取った映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で(英原題:Mr. Jones)』(2019年、ポーランド・ウクライナ・英国合作)は、奇しくも今から約90年前にウクライナで起きた人為的大飢饉「ホロドモール(Holodomor)」の存在を描いている。

 

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“一市民”が暴いた国家の嘘

『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』というのは、観客により分かりやすいキャッチーな邦題にするために、よくありがちな長いタイトルだが、3カ国の合作ということでポーランド語では「市民ジョーンズ(Citizen Jones)」を意味する『Obywatel Jones』、ウクライナ語では「真実の代償(The Price of Truth)」を意味する『Ціна правди』となっている(英原題は前述の通り)。

 

英国ウェールズ地方出身のガレス・ジョーンズ(Gareth Jones)は、母国語の英語とウェールズ語のみならず、フランス語、ドイツ語、そしてロシア語に通じたマルチリンガルの新進気鋭なジャーナリストだった。

 

同じウェールズ人の血を引く、デーヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)元首相に気に入られた彼は、アドルフ・ヒトラーへのインタビューに成功したことで一躍名を知られるようになり、次はソ連に足を伸ばして、ヨシフ・スターリンへのインタビュー取材を試みていた。

 

すでにモスクワで活動していた友人のポール・クレブ(映画のために作られた架空の人物)から「スターリンの黄金」に関する情報を得たジョーンズは、南部行きの列車に乗り込むことに成功する。彼がウクライナ入りしたのは、そのような経緯である。

 

ちなみに、ポーランドにクラクフに拠点を置く隔月刊誌『New Eastern Europe』の映画評*1によると、このポール・クレブ(Paul Kleb)というドイツ人ジャーナリストの設定は、経済誌『フォーブス』モスクワ支局長で、2004年にモスクワで暗殺されたロシア系移民の米国人ジャーナリスト、ポール・フレブニコフ(Paul Klebnikov)へのオマージュだと明言しているところが、なかなか西側や日本でいると気づかない視点で興味深い。

 

なぜウクライナは「スターリンの黄金」にされたのか

ウクライナは、決して簡単ではない地政学的な力学の狭間で、大国の力によってねじ伏せられてきた、まさに受難の国である。古来、ウクライナの広大で肥沃な平原は、たびたび侵略者にとって格好の標的となった。

 

中世にはキエフ大公国として栄えた連合国であり、正式名称を「ルーシ(Роусь)」といい、「ロシア」の語源にもなっている。ところが13世紀のモンゴル帝国に始まり、以降は極めて複雑な地政学的変遷を経ることとなる。代表的なものを挙げれば、ポーランド王国・リトアニア大公国、オーストリア゠ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国など、周辺のさまざまな大国によって支配・分割されてきた。1917年のロシア革命後は、ウクライナでも民族自決運動が起こり、ウクライナ人民共和国として国際的に認められたものの、わずか数年の独立期間を経て、巨大なソビエト連邦(ソ連)に呑まれていった。

 

中学校レベルの教科書でも、ウクライナが黒土地帯/黒土帯と呼ばれ、豊かな穀倉地帯を形成し、“欧州のパンかご”の異名を持つことくらいは載っているだろう。その豊かな土地で、飢饉が人為的に引き起こされたのである。

 

ウクライナの豊かな土地を耕すのは、ウクライナに住む農民である。しかし、ソ連は共産主義政策により、土地の共有化を図っていた。それを――つまり土地を引き渡すことを――ウクライナの人々は頑なに拒んだ。いったい誰が、よそから来た人間に、代々受け継いで守ってきた大事な土地をくれてやりたいと思うだろうか。

 

当然ながら、ソ連の為政者らの目には、多くの住民が農民を占めていたウクライナが敵と映った。そこで、1927年にソ連の実権を握ったスターリンが推し進めたのが、強引な近代化・工業化であり、中でも「五カ年計画」による農業の集団化だった。そしてこれが、ウクライナの農民にとって致命的となった。

 

教科書にも載っている、国営農場(ソフホーズ)や集団農場(コルホーズ)といった用語。しかし、それらがいったいどのような実態だったのかまでは、大半の日本人には全くといっていいほど知られていない。農民を自分の土地から切り離す(=国が全て掌握する)ことは、彼らの生命とともに、自らのアイデンティティーを押し殺すといっても過言ではないのだ。

 

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ウクライナ・チェルニーヒウ州に広がる大平原(Chernihiv, Ukraine)from Wikimedia Commons

 

農民は強制移住させられ、抵抗する者は容赦なく射殺された。このような現実を無視した急激な農業集団化のため、ウクライナ各地で広範な凶作が生じた。共産主義思想の下、富農撲滅運動という名目で、農耕に必要な数頭の家畜を所有しているだけでも「富農」とされた農民は、“反革命分子”というレッテルを貼られ、こうして次々と“粛清”されていったのである。

 

ソ連が国際社会で第一級の国家であることを示すためには、外貨が必要である。急速な工業化に必要な外貨を獲得するために、国内の食糧(小麦)を大量に輸出へ回す必要があった。その小麦の多くを生産したのが、ウクライナの肥沃な土地だったが、外貨として稼いだはずの豊かさは、決してウクライナの人々に還元されることはなかった。まさに江戸時代の日本で「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出る」と発破をかけたように、ソ連政府はウクライナの農民に過酷な調達ノルマを課し、収穫物の大半を収奪していった。

 

西側の欧米諸国が世界恐慌の不景気に喘いでいるときに、なぜソ連だけが、たとえ表層的でも不自然なまでの好景気を享受できたのか? これこそが、ウクライナが「スターリンの黄金」と呼ばれた所以である。

 

そもそも「ホロドモール」とは造語で、ウクライナ語で「飢饉(ホロド)により苦死(モール)させる」ことを意味する。当時撮影された極限の飢餓状態にある子供や、道端で放置された遺体の姿は、思わず目を背けたくなるほどに痛々しいが、彼らが口にするはずだった小麦が、虚飾の「黄金」に化けて為政者の懐を肥やしていたという史実は、本当に何ともやり切れない。

 

当時の為政者は、この当たり前すぎる現実の成り行きを、果たして事前に想定していたのか? 「ホロドモール」の実態を初めて西側世界に伝えたジョーンズをはじめ、この大飢饉が天災として自然発生したのではなく、人為的な理由に由来するのは疑いないという指摘は、おそらく今後も揺るぎないだろう。このほかにも、一説には「ホロドモール」がウクライナ人(および同様に犠牲になったカザフ人なども含めて)計画的な民族のジェノサイド(大量虐殺)だったという見方もある。つまり、ロシア化にまつろわぬ民衆・民族を一掃するという意図である。

 

餓死者・犠牲者の数は諸説あり、推定で数百万人から1,450万人などといわれている。いずれにしても「ホロドモール」は、1991年のソ連崩壊まで、公式にソ連政府によって否定され続けたことは、歴史において覆しようもない事実となった。

 

いまだに亡霊が跋扈する21世紀の世界

「ホロドモール」の人道的な罪は、ソ連の為政者に加担した、西側の知識人らも負うべきであろう。映画にも登場し、「ニューヨーク・タイムズ」紙のモスクワ支局長でピューリッツァー賞の受賞歴もある米国のジャーナリスト、ウォルター・デュランティ(Walter Duranty)のみならず――これは文学の愛読者にとって、大変ショックなことだが――当時、ソ連に招かれていたアイルランドのノーベル文学賞作家、ジョージ・バーナード・ショウ(George Bernard Shaw)や、SF小説で名高い英国の作家、ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells)らでさえも、同じ轍を踏んだ。

 

彼らは、自身が信じていた社会主義と親和があると思い込んだがゆえに、共産主義の仮面を被った独裁者の正体に気づかずに、ソ連の“模範的な運営が為されている農村”を見せられて、当局の望み通りの視察報告を行ったという。

 

皮肉なことに、進歩的な自由主義や民主主義を肯定しながら、反資本主義のヒトラーやスターリンに近づき、戦争に反対する社会主義者でありながら、優生学を信奉していたのが、最高峰の文学者と位置づけられる文人だったというのは、我々は肝に銘じておかなければならないだろう。

 

似たような事例は、実は形を変えて、ロシアに攻撃されたウクライナの惨状を伝える欧米メディアでも起こっている。ポリティカルコレクトネスに最も近いはずの幾人ものキャスター達が、「ヨーロッパの文明的な国が戦争だなんてあり得ない。ここはアフリカでも、シリアでも、アフガニスタンでもないのに」などといった旨の失言をし、謝罪に追い込まれている。

 

無意識に浮上した、自覚されない差別意識が自浄されないまま、それを中東・アジア・アフリカ側のジャーナリストや視聴者らから、#RacistReportag #StopRacismInUkraineといったハッシュタグを付けて厳しく指摘されていることは、21世紀になっても人間に内在する負の思考や感情を克服することが、いかに難しいかを露呈させている。

 

ソ連への入国を禁止となったジョーンズは、その後、1934年に当時の大日本帝国が支配していた満州国の内モンゴル地方を取材中に、30歳になる誕生日の前日である1934年8月12日、ソ連の内務人民委員部(NKVD)から派遣されたスパイの手で殺害されたと記録されている。

 

ホランド監督は、本作の映画製作に際して、次のように語っている。

 

We knew, when shooting this film, that we are telling an important timeless story. But only after I realized how relevant is today this tale about the fake news, alternative realities, corruption of the media, cowardness of governments, indifference of people.

The clash of Jones’s courage and determination against Duranty's cynical opportunism and cowardice is still valid as well. Today, we don’t lack corruptible conformists and egoists; we lack Orwells and Joneses. That is why we brought them back to life.

【邦訳】
この作品を撮影しながら、私たちが時代を超えた重要な物語を作っていることはわかっていましたが、実際に撮り終えてみると昨今の、盛んに伝えられるフェイクニュースや真実の在り処、マスコミの腐敗、臆病な政府、人々の無関心さなどのさまざまな問題に直結していることにも気づかされたのです。

ガレス・ジョーンズの勇気や意志の強さと、ニューヨーク・タイムズ支局長だったデュランティのひねくれたご都合主義や臆病さとの衝突が、今の世の中でもまだ起きています。賄賂で動く順応主義者や利己主義者はいなくなりません。一方で、ジョーンズやオーウェルのような真実を求め、立ち向かう人が少なくなっているように感じます。だからこそ、私たちはこの映画で彼らを生き返らせたのです。

 

"MR. JONES" Production Noteより抜粋/邦訳は日本語版映画公式サイト「DIRECTOR PROFILE」を引用) 

 

20年ほど前、ジョージ・オーウェルの再来かと思われるような辛辣な皮肉と批判精神で知られた、労働党支持者を公言する大学時代の恩師は、「ヨーロッパの社会と思想の歴史」の講義で次のように言い放った。「ソ連と中国で、共産主義は起きたためしがなかった。あれは共産主義に名を借りた、全体主義による恐怖政治にほかならない」。カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスは、まさか自分達が世に出した『共産党宣言/共産主義者宣言』や『資本論』などの著作によって、翌世紀以降にそれらが独り歩きを始め、ついに悪夢のような現実が地球上に現れることになろうとは、おそらく想像だにしなかっただろう。

 

あえてマルクスらの言葉を借りるなら、このようにも言い換えられるかもしれない。「一つの亡霊が世界に付きまとっている――独裁主義という亡霊が。世界中のあらゆる権力が、この亡霊を迎え入れるために神聖な同盟を結んでいる。ヒトラーやスターリン、毛沢東や東条英機、ポル・ポトやペロン、北朝鮮の金一族、トランプやプーチン、その他アジア・アフリカ・ヨーロッパ・南北アメリカにはびこる、ありとあらゆる政治屋やナショナリスト達なども」。

 

そしてその亡霊は、意外なところで我々の身近に潜んでいる。為政者のつく嘘と、マスメディアの怠慢が国家を存続させ、真実を知る者だけが声を出そうとするものならば、その口は閉ざされる。全ては己の保身のため、誰もが真実に蓋をする。歴史は何も変わっていない。絶望的に――。

*1:当該の記事「Devoted to the truth」には「... However, once they fell out of the authorities’ favour, they were disappearing, like the fictional character Paul Kleb (an obvious homage to Paul Klebnikov, a journalist who was murdered in Moscow in 2004). In the film, Kleb was a German journalist and an acquaintance of Jones.」とある