この不透明な時代に、「コヘレトの言葉」を聴く ~「ヘベル」の解釈をめぐって~

f:id:notabene:20210519051928j:plain

ゴシック建築の教会(exact date and place unknown, England

 

コヘレトは言う。

なんという空しさ

なんという空しさ、すべては空しい。

 

(『旧約聖書』「コヘレトの言葉」新共同訳 1章2節)

コヘレトは言う。

空の空。

空の空、一切は空である。

 

(同上 聖書協会共同訳)

 

訳語ひとつで一変する「言葉の顔」

テレビや新聞、SNS……メディアというメディアが、新型コロナウイルス一色で埋め尽くされている今日この頃。玉石混交の情報が目まぐるしく移ろいゆく中で、とりあえずビデオ録画しておいた番組を見て、久々に「おおっ!」と感銘を受けたのが『こころの時代~宗教・人生~ それでも生きる:第1回「コヘレトの言葉」とは何か』でした。昨今のNHKは、あちらこちらから批判の対象になっていて散々ですが、こと「100分de名著」と「こころの時代」においては、密かにいい仕事をしています。

 

さて、冒頭の2つの句は、どちらも日本聖書協会が訳した「コヘレトの言葉」からの一節を抜粋したものです。1987年以来、「新共同訳」として長らく読まれ続けてきましたが、31年ぶりに改訳されて、2018年に「聖書協会共同訳」が発刊されました。前者は読みやすさを重視し、言葉のリズムが豊かでより文学的・詩的であるのに対し、後者は原文に忠実であえて直訳も辞さず、より哲学的・思索的な表現になっている、という印象を受けます。

 

「空しさ」あるいは「空」の原語になっているのは、ヘブライ語で「ヘベル」と呼ばれる言葉です。「空の空、一切は空である」なんて、まるで仏教の経典か『平家物語』に出てきそうな一節ですね。たまたま仏教徒の家に生まれ、幼い頃から仏教用語に慣れ親しみ過ぎて食傷気味な私にとって、「空しさ」という訳の方がどことなく文学風で個人的には惹かれるものがありましたが……。この「空の空」という表現に置き換えられたのは(厳密に言えば、新共同訳以前の訳語に戻ったのは)、どうやら好みの問題ではない、別のれっきとした理由があるそうです。

 

人生は「束の間」だからこそ、生きるに値する

『旧約聖書』は律法の書(モーセ5書)、歴史書、文学書、預言書の4種で構成されており、「コヘレトの言葉」はその中でも文学書の一つとして所収されています(分類には異説あり)。本編を初心者にも分かりやすく解説した入門書として、小友牧師による『それでも生きる―旧約聖書「コヘレトの言葉」―』(NHK出版)、あるいはウェブ上では臼田宣弘牧師による「コヘレト書を読む」シリーズがあります。ご興味のある方はどうぞ。

 

ここから先は、小友牧師による上記のテキストを主に参照しながら、「ヘベル」が「空」と訳された所以を見ていきたいと思います。

 

「コヘレトの言葉」が書かれたと推定される紀元前200年頃の時代は、ユダヤ人を支配する宗主国が次々と入れ替わり、血で血を洗う紛争が絶えなかったといいます。明日の命をも知れぬ、不安定で先が見通せない社会情勢にあって、コヘレト(=伝道者)が世を儚んで「一切は空」だと言い切るほどにペシミスティック(悲観的)・ニヒリスティック(否定的)なものの見方をしたのは、このような時代背景があったことも看過できません。

 

ここでコヘレトは、「ヘベル」という言葉を使いました。英訳の聖書では、vanity(空しさ)、emptiness(空虚)、meaningless(無意味)、futility(無益)、nothing(無/虚無)、absurd(不条理)、irony(皮肉)、ephemerality(儚さ)、insubstantiality(脆さ)、mystery(神秘)、enigmatic(謎めいた)など、実にさまざまな訳し方があるとか。ここから転じて、小友牧師は「束の間=時間的に短いこと」と捉えています。

 

愛する妻と共に人生を見つめよ

空である人生のすべての日々を。

 

(9章9節)

若者よ、あなたの若さを喜べ。

若き日にあなたの心を楽しませよ。

〈中略〉

若さも青春も空だからである。

 

(11章9-11節)

 

この文脈で、「空」を「束の間」と置き換えてみると納得がいきます。確かに、単に「空しい」と訳しては、言葉の持つ印象・意味が完全に違ってしまいますね。

 

人生は短く、限りがある。しかし束の間だからこそ、日常の小さな出来事さえもすべて生きる価値・意味があるのだと、コヘレトは逆説的な語法で説いているというわけです。だとしたら、「空の空」とは何という人生讃歌の言葉なのでしょうか。

 

無宗教の現代人がなぜ「コヘレトの言葉」に共鳴するのか

再び歴史的な背景に戻りますが、「コヘレトの言葉」が書かれた頃は貨幣の流通が盛んになり、ユダヤ人社会が市場経済に呑まれ、貧富の差が激しくなった時代です。これは現代にも十分通じる社会構造で、コヘレトが一貫して描いているのは「虐げられる者の涙」であり、当時の権力者に対する批判でもありました。

 

誰のために私は労苦し

私自身の幸せを失わなければならないのか。

 

(4章8節)

 悪事に対して判決が速やかに下されないため

人の子らの心は悪をなそうという思いに満ちる。

百度も悪を重ねながら

生き長らえる罪人がいる。

 

(8章11-12節)

 

えっ、これは何という既視感(デジャヴ)!? どこかの国で今まさに騒がれている事態ですよね。見よ、斜陽の国ニッポン。コヘレトはさらに、当時のいわゆる監視社会に対しても警告しています。

 

心の中で王を呪ってはならない。

寝室で富める者を呪ってはならない。

空の鳥がその声を運び

翼を持つものがその言葉を知らせてしまう。

 

(10章20節)

 

権力者の不正が横行し、人々が常に監視下に置かれる悲惨な社会。ここでコヘレトが権力者への批判を「気をつけよ」と警告している点は、真っ向から異議を主張して個人の意見を表明できる民主主義の時代にはそぐわない部分もありますが、ファシズムが忍び寄っているどこかの国の人間には他人事では済まされない予言的な警鐘でもあるでしょう。

 

コヘレトはさらに、当時流行していた終末論(=この世界に終わりがあるという黙示思想)にも異を唱えています。終末論が孕んでいる問題とは、世界に終わりがあるとすれば、「今」はただ耐えるだけの空疎な通過点にすぎず、人間は現世で何をしても意味がないことになります。当然、生きる喜びもなく、人生は空虚なものになります。コヘレトは、そのような空しい生き方に対して、現実的かつ建設的な人生讃歌を謳っています。

 

そこで、私は喜びをたたえる。

太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに

人に幸せはない。

これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に

伴うものである。

 

(8章15節)

 

いつ訪れるか知れない世界の終わりに一喜一憂するよりも、目の前にある日々の労苦をきちんと担い、「今」を生きよというのです。大事なことは、ヘベルの人生、つまり終わりのある束の間の人生をどう生きるか。だからこそ、飲んで食べて、働き、楽しみ、与えられた今あるこの命を生きるべきなのだと。

 

旧約聖書の知恵文学は、基本的に「地上でどう生きるか」を考えるものだと小友牧師は指摘しています。コヘレトはその人生の知恵を、極めて現実的に考え、今そこにある幸せを厳しくも温かに見つめました。

 

たとえ明日、世の終わりが来ようとも

今日、私はリンゴの木を植えよう

 

これは16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの言葉とも伝えられていますが、確たる文献はありません。これと似た言葉を、コヘレトは次のように綴っています。

 

朝に種を蒔き

夕べに手を休めるな。

うまくいくのはあれなのか、これなのか

あるいは、そのいずれもなのか

あなたは知らないからである。

 

(11章6節)

 

蒔いた種が芽を出し、うまく育つかどうかは、誰にも分からない。未来のことは、人間には到底知り得ないことです。明日が見えないのに、今をどう生きたらよいのか――。誰も答えを出してはくれない。なぜなら、答えるのはこの「私」だからです。「コレヘトの言葉」には、その答えを探すための知恵が溢れています。

東の『エマ』、西の『アンダー ザ ローズ』 ~英国マニアが描いた漫画の世界~

f:id:notabene:20210519051754j:plain

19世紀の面影を残すロンドンの路地裏(White Horse Street, Mayfair, London)  

 

'London'

William Blake

 

I wander through each chartered street,

Near where the chartered Thames does flow,

And mark in every face I meet

Marks of weakness, marks of woe.

 

In every cry of every man,

In every infant's cry of fear,

In every voice, in every ban,

The mind-forged manacles I hear.

 

How the chimney-sweeper's cry

Every blackening church appalls ;

And the haples soldier's sigh

Runs in blood down palace walls.

 

But most through midnight streets I hear

How the youthful harlot's curse

Blasts the newborn infant's tear,

And blights with plagues the marriage hearse.

 

 

「ロンドン」

ウィリアム・ブレイク

 

私は、特権を誇っている町という町を、

特権を誇っているテムズ河のほとりの町々を、歩きまわる。

すると、そこで出会う一人一人の顔に

疲労困憊の色、悲しみの色が漂っているのを私は見る。

 

どの男のどの叫び声にも、

怯えて泣くどの嬰児の泣き声にも、

どの声にも、どの憤恚(ふんい)の声にも、

人間の心が自ら作った鉄鎖の呻きを、私は聞く。

 

煙突掃除の少年の声を聞いて、なんと、

黒ずんだ教会が竦(すく)み上がることか!

哀れな傷病兵の溜息を聞いて、なんと、

宮殿の石壁から鮮血が滴り落ちることか!

 

だが、とりわけ、私の耳を打つのは、真夜中の

街々に溢れる若い娼婦の詛(のろ)いの声だ。なんと、

彼女らのその声に、生まれたばかりの嬰児の涙が涸れ、

夫婦生活が悪疫に見舞われ、墓場と化してゆくことか!

 

(『イギリス名詩選』平井正穂 編 岩波文庫)

 

変わりゆく時代だからこそ目が離せない

歴史の中で、変革の時ほど面白い時代はありません。長らく停滞期にある現代の日本で生きていると、なおさらそう感じるのでしょうか。

 

私の場合、「生まれる場所も時代も間違えた」というくらいに、19世紀後半のヴィクトリア朝から20世紀初頭のエドワード朝にかけての英国に対して、異常な興味と興奮を掻き立てられるわけです……もちろん、階級差別あり、厳格な因習あり、公害ありの悲惨な時代。それと同時に、産業革命によって新しい階層、新しい技術、新しい価値観がせめぎ合い、古きものに取って代わる激動の時代でもありました。

 

時代と作品のシンクロニシティー(同時性)

今回は、奇遇にもこの同じ時代と国を舞台にした、二つの漫画作品についてご紹介します(なるべくネタバレしないように気をつけます!)。

 

森薫さんの描いた『エマ』(KADOKAWA)は、孤児からメイドになったエマとジェントリ(上流階級)出身のウィリアムを主人公に、清冽に湧き出る泉のような人間性の気高さと純愛を美しく謳い上げました。人として生きる小気味よさが全編を貫き、読後感を爽やかにしてくれます。なお、『エマ』については「ヴィクトリア朝に生きた女達の、高貴なる『耐える勇気』 ~ブロンテと『エマ』の時代の英国~」でも少し触れました。

 

notabene.hatenablog.com

 

一方、船戸明里さんの『アンダー ザ ローズ*1』(幻冬舎コミックス)では、貴族と召使いの狭隘な世界で、どす黒い憎悪や嫉妬、堕落、狂気が渦巻く中、人間の美醜をこれでもかと描き切っています。その地獄のような人間模様にあって、なお悲哀や歓喜とともに生きている人間のしたたかさを讃えます。

 

この二人の対照的な作家性こそ、19世紀末の英国の矛盾した、アンビバレントな(相反する感情が同時に存在する)姿そのものだといえるでしょう。もう一つの共通点といえば、主人公が眼鏡をかけた理知的な若い女性であり、それぞれのお相手はどちらもウィリアムという名前。片や、紳士として真摯に守ってくれるのに、片や、伯爵家で優等生の顔をしながら家庭教師(ガヴァネス)を手込めにして泣かせるというこの愛し方の対局性。

 

相撲で例えるなら、東京都出身の森さんが「東の横綱」で、愛知県出身の船戸さんが「西の横綱」という、日本の漫画界で堂々たる勝負に出たところ。いや、勝負などよりも、ぜひ両方の世界に入り浸っていただきたいのです。その深淵を見た者は、あまりの面白さに二度と戻って来られませんから(笑)

*1:under the rose=秘密に、内緒で〈昔、バラは秘密の象徴だった〉

インタビュー記事を作る醍醐味とジレンマ ~「沈黙のコトバ」を届けるために~

f:id:notabene:20210519051527j:plain

「坊主バー」のお経を模したメニュー(東京都新宿区荒木町) 

 

語られた言説だけを信用してはならない。また、書き記された言葉だけを信用してもいけない。そこには本当に起こったことの断片しか述べられていないからだ。

 

むしろ、あらゆる言葉は、語られなかったことによって支えられている。

 

だから私たちは、もっとも伝えたいことを胸に秘めたとき、しばしば言葉を発するのをやめ、沈黙のちからを借りる。真に文学者と呼ぶに値する人は、いわば言葉の世界と沈黙のコトバの世界を橋渡しする者であるようにも感じる。

 

(『種まく人』「沈黙の秘義」 若松英輔 亜紀書房)

 

人が語るということ

世間では仕事納めの、年の瀬がやってきました。かくいう私は取材ライターの仕事を抱え、今日は神奈川県S市にある石材店を訪れたばかり。つまり、正月はお墓について書くことになるのですが(!)、非常に印象的なインタビューとして心に残ったので、少し書き留めておきたいと思います。

 

決して大きくはない駅から、バスに揺られること十数分。そこからさらに徒歩で行くと、辺鄙な所にポツンと一軒、小さな事務所がありました。社長のS氏が一人で迎えてくださったのですが、インタビューの開始から5分ほどは、お互いに緊張してなかなか話の流れがつかみにくいもの。その緊張をどうほぐすかが、インタビュアーの腕の見せどころでもあります(汗)。「うちの強みですか? 特にないのですけれどもね……。ああ、そういえば」と、S氏は思い出したように、隣県の山梨からわざわざ依頼に来た方のことを話してくださいました。

 

インタビュー慣れしていないS氏の朴訥な語りから、途端に自然に笑みがこぼれました。「『なぜうちに依頼を?』とお客さんに聞いたら、『Sさんに任せると安心だ』と言ってくれたんです。一年越しに、細かい注文を慎重になさる方だったのですが、面倒がらずに全て対応したら、最後に感謝の手紙までいただきました。会社の利益よりお客さんのことを考えると近道なんですね」。人が熱意を込めて語る瞬間ほど、その人の魅力が発揮されることはない。インタビューの醍醐味とは、その魅力を目撃することにあるといえるでしょう。

 

語られざる人間のドラマ

押し並べて、ビジネス系のインタビュー記事では、ことごとくネガティブなイメージを忌避した“前向き”な内容が好ましいとされています。自社イメージが利益につながりますから、当然と言えば当然ですね。特に、大手と呼ばれる企業では「広報PR(パブリックリレーションズ)」を戦略として合理的に駆使し、それなりの予算を割いてイメージアップを図っています。その結果、「自社のアピール」や「他社との差別化」という紋切り型の枠組みの中で、マニュアル化されたインタビュー記事を大量生産するわけです。

 

先日、都内でも有数の上場企業に転職したばかりの公認会計士さんへのインタビューに同席したときのこと。彼は決して雄弁ではなく、履歴書どおりの経歴を述べながら、資格取得の動機や、転職の理由を説明するのに何度も言葉を詰まらせていました。おそらく、他人には秘めておきたい、人知れぬ苦労や苦悩のドラマがあったのは、想像に難くありません。ところが彼の上司や人事担当者は、いかに彼が有能で自社にとって有益であるかを強調し、あたかも“汚点”を隠すのに躍起になっていたように見受けられました。とどめは、「自社が他社よりもいかに優れているか」という妄信的なアピール。この手のインタビューは二度目でしたが、すっかり私は食傷してしまったのでした。

 

他人の自慢話ほどつまらないものはありません。成功譚は、欠点や失敗談に裏打ちされてこそ意味があり、面白いのですから。

 

文字で表し得ないことこそ、読み取ってほしい

インタビュー記事を制作するとき、最初に立ち会った生身の人の話から、執筆、校正・校閲、編集の手を経て記事化された最終形の文章を見てみると、“事実の偽造”とまでは言いませんが、いかに別物に仕立て上げられたかについて、いささか罪悪感にとらわれないこともありません。時には、語り手の気持ちや意図を“忖度”してあえて脚色することも。それでも、たいていは「こんなにまとめてくださってありたがい」というお言葉をいただけるのです。これをジレンマと言わずして、何と呼ぶべきでしょうか。

 

これは自戒を込めて言いますが、出来上がった字面だけを見て喜んでいる間は、物書きとしてまだまだ未熟だということです。その証拠に、ベテランのライターさんほど、編集者が無難に仕立て上げた文章を満足に思っていません。一見、美しく整えられて完成した文章からこぼれ落ちた思いや意味は、再び拾いようがないのですから。

 

冒頭に挙げた引用の中で、批評家の若松氏は、“文字で全てを表し得る”と信じて疑わない現代のリテラシーに警鐘を鳴らしています。今後、皆さんがインタビュー記事を読むとき、どうか書き記された文字の断片から「語られなかった何か」を感じ、汲み取っていただければ幸いです。